第36話
二つの御山に挟まれた顎の谷は、冬になれば雪に埋もれるのは早い。
集落は、そう易々と雪の吹き込まぬ場所に設けられているけれど、外への道は閉ざされる。
この季節の間、集落の住人は収穫して乾燥させておいた草の蔓を編んだりしながら、籠って過ごす。
また子作りが盛んになるのもこの時期だ。
他には、戦士は冬の間に訓練に精を出す事で、春に活発化する魔物に備える。
竜神官もまた同じくで、今年は新たに誕生した見習いのハサムとレッサ、それから広き丘の集落から預かった見習いのオレスとウィンプがいるから、さぞや熱の入った訓練になるだろう。
さてそんな集落で、近頃は女衆が賑やかに騒いでた。
そして面白い事に、その中心にいる人物は、先頃この集落の一員として加わったリジェッタである。
今、彼女を中心として集落を賑わせているのは、熱い湯に浸かる風呂だ。
顎の谷の集落では、これまで水場での水浴びは行われてきたが、湯に浸かるなんて事は誰もしようとしなかった。
尤も竜を崇める民の全てがそうであるという訳じゃない。
例えば、オレが以前に訪れた地の小人の集落では、沸いた湯を引いた温泉が存在しているし。
だから皆、湯に浸かって身体を清める集落があるという事は、知識としては持っていた。
但し当たり前の話だけれど、そんな贅沢がどの集落でもできる筈がない。
地の小人の集落は火山地帯に存在するからこそ、沸いた湯がそのまま手に入るだけで、普通の集落では燃料を使ってわざわざ湯を沸かす必要があるのだ。
それが途轍もない贅沢である事は、言うまでもないだろう。
しかし当然、いと高き場所の寒い冬の最中には水浴びなんて気軽にできる筈もなく、冷たい水を使って震えながら、皆が冬場は水を忌避する。
けれどもリジェッタは、燃料も使わずにそれを解決する手段を持っていた。
そう、呪い。
……彼女がそれを学んだ人間の国の言葉で言うなら、魔術である。
リジェッタは魔術を使って湯を沸かし、それを集落の女衆に使わせたのだ。
正確には、石を魔術で熱して水に投入し、湯を沸かしたらしいけれども。
彼女が何故そんな事をしたのか。
それはリジェッタ自身が湯を使いたかったからでもあるのだろうけれど、恐らくは子を産む母の為だった。
というのも、彼女は長の養女として集落に迎え入れられたが、預けられた先は命の母の家である。
命の母とは、僕の知識でいうところの産婆、助産師にあたり、女性のみが担う事ができる役割だ。
また女性達の声を取り纏める代表者であり、命の母の言葉は竜神官や、集落の長であっても決して無視できない重みを持つ。
つまり簡単に言えば、リジェッタの有力者達の庇護下に置かれて集落に迎えられたって意味なのだけれど、まぁそれはさておこう。
竜を崇める民に馴染み、集落の一員となろうとする彼女は、当然のように命の母の仕事を手伝い始めた。
オレは、ついでに言うなら前世の僕の知識にも、出産の詳しい知識はない。
でも出産の際に、雑菌などが母子の命を奪う可能性があるとは、……病院暮らしの長かった僕はどこかで耳にしたような気がある。
だからこれは推察なのだけれど、リジェッタは子を産む母や、その世話をする自分達が身綺麗にする事で、その危険を遠ざけようとしたんじゃないだろうか。
もしそうだとしたら、人間の国はオレが思う以上に、高い知識と技術を持っているのかもしれない。
尤もこれは、他の竜を崇める民には理解し難い話だろう。
ただ命の母はこれまでの経験から、リジェッタの話に理があると認め、特に損もないのだからとそれを受け入れた。
そして湯を使って身綺麗にした子を産む母は、その快適さを他の女衆に伝え、皆が自分達も湯を使いたいと思うようになるまでに、然程の時間は掛からなかったのだ。
女衆が身綺麗になれば、男衆は張り切り、次は男衆の小汚さに女衆が我慢できず、男衆にも清潔さを要求する。
だがこれも当たり前の話だが、幾ら魔術でもリジェッタ一人では沸かせる湯の量には限界があった。
水は、周囲の雪を解かせば豊富に手に入るけれども、手は足りない。
一時は竜神官であるレイラまでもが、竜の吐息で雪を解かす為に駆り出されたんだとか。
この騒ぎは、長の裁定が必要となった。
命の母の仕事を手伝うリジェッタはともかく、竜神官を使ってまで湯を得ようとする騒ぎになっては、流石に放置はできなかったのだろう。
竜を崇める民にも、呪いを使う者はいる。
人間の国の魔術師みたいに体系的な術を使う訳ではないけれど、僅かな呪いを親から子へと伝えてる家は幾つか存在しているのだ。
実際、今の命の母も、少しばかりの治癒の術が使えると聞く。
そんな呪いを使う者達にリジェッタが湯を沸かす術を教える事で、人手の不足を解決する。
人手の不足が解消するまでは、少しばかり我慢しろ。
これが長の下した裁定だ。
冬の湯はそんなにも魅力的だったか、この裁定にも文句を溢す女衆はいたそうだけれど、そんな女達もリジェッタを忙殺して潰してしまう事は本意ではない。
集落に新たな楽しみを教えてくれたリジェッタは、女衆にとっては既に身内と認識されていたから。
皆が長の裁定を受け入れ、この件は一応の解決を見せる。
オレは、自分にまで雪を解かす役割が回った来なかった事にホッとしながら、今回の件は興味深く眺めてた。
これから先も、リジェッタという他所からの人間を受け入れたこの集落は、何らかの変化や騒ぎに見舞われるだろう。
それが竜を崇める民として譲れない部分でなかったならば、オレはそれを受け入れる。
しかしリジェッタが竜を崇める民の譲れない部分に触れてしまいそうになった時は、早めに止めてやるのが、彼女をこの集落に連れて来たオレの役割だ。
例えば、竜神官になる為の第一階梯の試練は、リジェッタの常識から考えれば、子殺しにだって思うだろうから。
でも決してそうではなく、竜を崇める民がこのいと高き場所で暮らす為に、譲れない必要な行為なのだと、わかって貰う必要はあった。
理屈ではなく、竜を崇める民はそうする事で力を得、この地に生きてきたのだから。
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