第11話
夏の終わりが見え始める頃、顎の谷の集落ではある儀式が行われる。
竜供の担い手が育てた家畜を、東と西の御山が交わる特別な場所、祭壇へと運んで供物に捧げる、部族の存続に関わる大切な儀式が。
祭壇まで家畜を運ぶのは、オレを含む竜神官の仕事で、普段はバラバラにそれぞれの仕事に従事している皆も、この日ばかりは全員が揃う。
顎の谷の部族に属する竜神官は、今は六名。
長とアメナとオレ以外に、もう三人だ。
一人目はジャミール。
確か十八か十九の、二十にならない男で、第三階梯の試練までを越えている。
性格は享楽的で、妻を持たずに幾人かの女性を囲って、竜神官としての特権を享受していた。
どうにもジャミールは、年下であるにも拘らず自分より先の試練を越えているオレが気に食わないらしく、顔を合わせれば突っかかってくる事も多い。
但し鉤爪を用いた近接戦闘の実力は確かで、見習うべき点も多い男だ。
また女性を囲っている事に関しても、長が言うには色々と理由があるのだとか。
二人目はレイラ。
詳しい年齢は聞いていないが、二十を幾つか越えたくらいで、三人の子を産んだ母でもあった。
一人目の子は第一階梯の試練を受けて、生き残りはしたが竜神官にはなれず、二人目の子は試練の最中に命を落としてる。
三人目の子は乳飲み子だから、まだ試練は受けていないが、その時は決して遠くない。
レイラは既に第四階梯までの試練を越えているが、子がある程度育つまでは第五階梯の試練、ワイバーンには挑まないと思われた。
そして三人目がラシャド。
オレ以外に第五階梯の試練を越えた一人……、どころか既に第八階梯の試練を越えている、この部族の英雄だ。
年齢は確か三十を幾つか越えたくらいで、妻との間には子も多い。
顎の谷の部族以外にもラシャドの名は知られており、今、竜に最も近い人間の一人とされている。
また儀式を見守る為に竜人も一人、あぁ、オレの第五階梯の試練でも見守り手を務めてくれた、碧き鱗のラグナも集落を訪れていた。
これだけの竜神官が集まって、家畜を祭壇に運ぶ程度の仕事に手間取る筈がない。
そもそも祭壇には御山の主である竜の気配が色濃く染み付いており、魔物が近寄る事は殆どないのだ。
ましてや供物を捧げる邪魔をすれば、竜の怒りを買う事くらいは魔物であっても、いや、むしろ魔物であるからこそ理解している。
祭壇は東と西の御山が交わる特別な場所。
見た目は、そう、谷の真上に掛かる、太く巨大な橋だった。
二つの御山を繋ぐ橋、その両側、東と西に、それぞれ供物を捧げる台が設けられている。
台に家畜を固定した後は、オレを含む竜神官達は祭壇の、橋の真ん中に集まり、首を垂れてその時を待つ。
やがてズシンズシンと腹に響く重い地響きが聞こえてきて、祭壇を揺らす。
同時に強い風が吹き、気を抜けば吹き飛ばされそうになる。
東と西の御山の主である、この儀式の主役である竜の登場だ。
現れた竜はどちらも、まずは捧げられた牛を一口に飲み込む。
遠目にならともかく、こんなにも間近で竜の姿を見られるのは、竜を崇める部族の中でも、やはり竜神官だけである。
この儀式は年に二度、つまりオレはこれまで幾度も黒地竜と碧風竜の姿は見ているけれど、その度にこの威容には心を奪われた。
東の御山の黒地竜は小山のような雄大な巨体で、その鱗は黒々と金属のように鈍い光を放つ。
西の御山の碧風竜は優美という他にない美しい竜で、滑らかな碧の鱗はまるで宝石のように輝く。
だけど今回は、何時も以上に動悸が激しい。
きっとそれはオレの中に、今は僕が居るからだろう。
ずっと焦がれてきた竜という存在。
文字で、イラストで、想像の中で、描かれていたそれが、今は目の前にいる。
不思議な話だった。
オレにとって僕は、記憶であり知識でしかないのに、オレと僕は何の違いもない、一つの人格、一つの魂である筈なのに。
熱い何かが、頬を伝う。
そう、まるでそれは僕が泣いてるようだった。
黒地竜はこちらに興味を示す事なく、捧げられた牛を食べればすぐに、しかし動作はゆっくりと去っていく。
けれども碧風竜は竜神官達を恐らく一人一人、特にオレ、或いは僕に長々と視線を浴びせた後、大きく翼をはためかせて空に舞い上がって飛び去る。
きらりと輝く何かを、その場に残して。
竜の姿が、気配が完全に遠ざかってから、まずは長が立ち上がり、竜の残したそれを確認して、感嘆の息を漏らす。
竜が去った後、稀にその鱗が祭壇に残されている事があり、それは竜から人間に下賜された物として竜神官が受け取る習わしだった。
長はラシャドの方を一度見た後、彼が頷いたのを確認してから、
「ザイドよ、この半年で最も竜への道を歩み、集落へと貢献したのはお前だろう。この鱗は、西の碧風竜よりお前に与えられし物だ」
オレの名前を呼んだ。
驚きながらも、オレは慌てて涙の後をグイと拭って、立ち上がる。
泣いてたなんて、バレてやしないだろうか。
周りをこっそり確認すれば、アメナは驚きに目を丸くして、レイラは笑みを浮かべて頷き、ジャミールは憎々し気にオレを睨み付けていた。
あぁ、どうやら皆、竜の鱗が残されていた事に驚いて、オレの涙には気付いてないらしい。
或いは、うん、レイラ辺りは、見て見ぬふりをしてくれてるだけかもしれないけれど。
竜の鱗。
竜を崇める部族にとっては紛う事なき宝であるそれを、オレは進み出て、手で拾い上げた。
その鱗は、握った拳よりも一回りか二回りほど大きい。
感触は硬くてひやりと冷たいが、内側からにじみ出るような輝きには、何故か不思議と温かみを感じる。
拙い、何だかまた泣きそうだ。
竜の姿を目の当たりにしてから、驚く程に情緒が定まらない。
今の状況を信じ難い気持ち、言い表せない程の喜び、こんなにも大きな存在に果たして自分は至れるのだろうかという不安。
それらの感情が入り混じって、僕の胸を打つ。
だけどその感情の全てを、オレは飲み込む。
取り戻した前世の記憶も含めて、オレは今のオレだから。
渦巻く感情を一つずつ整理しながら、ジッと竜の鱗を見詰めていると、
「素晴らしいな、顎の谷のザイドよ。だがそのままでは持ち運び辛かろう。地の小人の集落を訪れて、首飾りにでもして貰った方がいい。もちろん、一時でも手放すのは抵抗もあろうが、結局はその方が共に在れる」
後ろから声を掛けてきたのは、竜人であるラグナだった。
この後、間違いなく鱗を持て余す事が見えてるオレに、どうすべきかを教えてくれる。
顎の谷の部族は、竜の鱗を首飾りにするような技術はない。
だがこのいと高き場所に住む種族の中には、その技術を持つ者もいる。
尤もそれは竜人と同じく、人間とは別の種族だ。
地の小人、このいと高き場所で、鍛冶や細工という行為を許された小さき人々。
彼らは宝剣や煌びやかな装飾品等を作り出し、それを竜に献上する事で、その炎を借り受けてる。
僕の知識で言えば、ドワーフではなくノームが近い。
また自力で鉤爪を得られる竜神官はともかく、部族の他の戦士が使う武器も、地の小人の集落で鍛えられ、交易を通じて齎された物だった。
仮に地の小人の存在がなかったなら、竜を崇める民の生活は、もっと厳しく危険が多いものだったに違いない。
オレはこれまで地人の集落に赴いた事はなかったし、簡単に行ける場所ではないとも聞いているけれど、それでも第五階梯の試練を越えて、ワイバーンであるヴィシャップを従えたオレなら、行き来も十分に可能だろう。
あぁ、そもそも、ワイバーンに乗れるようになった事で、他の集落へ使者として赴く仕事も増えるだろうし、オレもこの集落の周辺だけでなく、いと高き場所の全体の地理に詳しくなる必要がある。
手始めに、というには地の小人の集落は些か遠いが、どのみち何れは訪れる場所だった。
まぁしかし、それは後で考えよう。
半年に一度の儀式は、これで終わりだ。
祭壇の下の集落では、部族の皆が酒や食べ物を持ち寄って、今か今かと待っている。
今回も無事に集落の、部族の存続を竜に許された、祝いの宴の始まりを。
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