第64話 甘い言葉はいずれ溶ける雪結晶

 

 ノア皇子はひとしきり泣くと、「習い事の時間だから」と顔を上げ涙を拭った。

 

「無理は良くありませんよ。リアム陛下だって子供のころは良くサボっていました。……らしいです」

 それを聞いたノアは花が咲くように朗らかに笑った。


「僕、大きくなったら陛下の役に立つ侍従になりたいんだ。母様は王位を継げって言うけど……陛下に認めてもらうためにも勉強、がんばる」

「陛下ならきっと、ノア皇子が決めたことに賛成してくれます」

「……勉強が無いときは、また遊んでくれる?」

「もちろん。いっぱい遊びましょう!」

 笑顔で建物の中へ入っていく皇子を見送ると、ミーシャはビアンカの後宮をあとにした。



「……よく見たら、護衛兵がいっぱいだったね」

 ミーシャは、すぐ後ろをついてくるライリーに、そっと話しかけた。

「そうですよ! ノア皇子が魔力を使用していたから近づけなかっただけで、本当なら真っ先にミーシャ様が捕まってます」

「……そうね。今度から、迷子には気をつける」

 皇子のことも、リアムに「放っておけ」と言われていたのに、思い切り関わってしまった。あとで怒られるだろうと想像すると、胃が痛くなった。


 ミーシャがいつも薬草を探している庭に戻ってくると、さっそく雪かきを始めた。

「……この、重労働。いつまでっ、お続けになるつもりですか……?」

「この国にいる限りよ」

 ミーシャの言葉に、ライリーは膝から崩れ落ちた。

「ユナとサシャも手伝わせましょうよ……」

 回廊でこちらを見守る二人にライリーは視線を向ける。

「あら、ライリーとのせっかくの二人きり時間なのに?」

「そのせっかくの時間に割って入らせていただきます」

 無表情でぬっと現われたのは、背の高いイライジャだった。


「女性二人で雪かきをしていたら、いつまでも地面など見えませんよ。私も手伝います」

 正直、雪かきに限界を感じていた。ミーシャはユナとサシャも呼んで、みんなで除雪することにした。

 雪になれているイライジャの雪かきは手際よく、とてもはかどった。が、しかし。

「……ここも氷床ね。土の地面はほとんどない」

「グレシャー帝国には陛下の力のおかげで短い春と夏がありますが、この氷の宮殿はその間も雪と氷が在り続けます。草花など、育つ余裕はないでしょう」

 ユナの説明に、サシャは頷きを返した。


「でも、先ほどビアンカさまの宮殿にはテントウムシが居ました」

「全くないというわけではありません」

 そう言うと、イライジャは作業を再開した。


 ミーシャもまた作業に戻ろうとしたら、突然サシャが「ミーシャ様、あそこ!」と声を張った。

 彼女が指を差した方を見る。そこは、リアムの仕事部屋だと以前、聞いた場所だった。


 バルコニーにいたのは、リアムと、ナターシャだった。

 ……ナターシャ様。来ていたのね。


「お声、届くかな」

 ふらりと近づき、手を上げて声をかけようとしたら、ミーシャの前にイライジャが立ち塞がった。


「除雪と、草抜き、続けましょう」

 ミーシャは手を下げると、彼に向かって頭を下げた。

「イライジャ様、手伝ってくれてありがとうございます」

「礼は要りません。私が手伝うのは陛下のためですから」

 イライジャは一度二階のバルコニーを見仰ぐと、再びミーシャを見下ろした。

 ユナやサシャに聞こえないように顔を近づけると低い声で言った。


「ミーシャ様。陛下の治療を済ませて、早く帰ってください」


 冷たい瞳をまっすぐ向けられて、ミーシャは息を呑んだ。


「あなたは、陛下の傍にいるべきじゃない。クレア師匠を思い出させ過去に縛り付ける」


「なっ。 イライジャ様。ミーシャ様に向かって何てことを!」

 ミーシャのそばにいて会話が聞こえたライリーは声を荒げた。ユナとサシャは顔を見合わせ何の騒ぎです? と言いながら近づいてくる。

 目を釣り上げて、イライジャに食ってかかろうとするライリーをミーシャは身体を押さえて止めた。そして振り向き、彼に言った。


「イライジャ様。ご心配には及びません。私は元々、そのつもりでここには来ていますから」


「そうですか? 私はあなた様の護衛として幾日かそばに使えさせていただきました。侍女含め、少々浮かれ過ぎているようにお見受けいたします」


 言葉の刃が思わぬ形で返ってきて、ミーシャはその場から動けなくなった。


「浮かれたって良いじゃない。あの女性にまったく興味を示さなかった陛下がミーシャ様には甘い言葉をかけられるのですよ?」

 固まる主人を見かねたサシャは、長年、リアムを見てきたと息巻きながらイライジャに向かって言い返した。


「その通り。元々陛下は恋愛に興味を示さず、女性を口説くようなお方ではありません。では、なぜミーシャさまには甘い言葉を囁くか。おわかりになりますか?」

「……公然の場で、あえて甘い言葉を私にかけるのは、魔女の私を畏れるな、危害を加えるな。という意思表示。私を、心配してのこと」

 ミーシャが答えるとイライジャは頷いた。


「陛下の言葉は、あなたを守るため。そこに、気持ちがあるわけではないのです」


 リアムの言葉に、気持ちが、ない……。

 突きつけられた現実に、ミーシャは手と足の先から凍っていくような錯覚を覚えた。

 

 リアムが自分に向けてくれた瞳や、言葉を思い起こす。

 あれはすべて、ミーシャに向けたものではなかったのだ。


 最近、リアムのそばにいる事になれてきた。楽しくて、忘れていた。

 私、いつのまにか勝手に……そう、無意識に……期待してしまっていた。

 彼と、昔のような師弟の関係に近いものになれると。

 今はただ、仮初めの関係を続けているだけだというのに。



「陛下が寵愛している者に、誰も迂闊には手を出せない。……例外は少々ありますが」

 イライジャがちらりとユナとサシャを見たため、二人は罰が悪そうに、縮こまった。


「陛下にはナターシャ様こそふさわしい。鵜呑みにして、これ以上勘違いなされませんように」


ミーシャは一度深く息を吸った。呼吸を落ち着かせて、冷たくなった手をぎゅっと握ると顔を上げ、イライジャを見た。


「イライジャ様の言うとおりです。陛下にはナターシャ様がお似合いだと思います」

「ミーシャ様!」

 手を横に出して、イライジャに詰め寄ろうとするライリーを遮る。


「私は、もとより陛下の特別な存在になるつもりはありません」


 ……いくらきれいに着飾ろうと、私が陛下のお目に留まることはない。


「イライジャ様。ありがとう」


 ミーシャは微笑むと、しゃがみ込んだ。震える手で雪にそっと触れる。


 彼からもらった言葉はこの雪結晶のようなもの。美しいが儚く、いずれ溶けて消える幻。

 だけど、それでいい。彼の胸にも自分の胸にも、想いは残してはだめだから。


 顔を上げて、もう一度バルコニーを見る勇気はもう、ミーシャにはなかった。

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