第13話 青天の霹靂
姉が結婚する――という報せを、母から電話で聞いた。
一瞬ぽかんとしてから、
〈やあねぇ、ああ、そう、なんて。おめでとうとかないの?〉
母の言葉は、気のない返事を責める風だったけれど、声音は嬉しそうだった。
青天の
春絵はちらりと視線を自分の背後に向けた。
幼稚園から帰宅したばかりの
コップ、歯ブラシ、弁当箱はキッチンの流しに。
手拭きやハンカチは洗濯籠に。
カバンと帽子とブレザーは、リビングの端に用意した子供用ハンガーラックに。
それぞれをあるべき場所に片付けたら、好きに遊んでいい、というのが、桑名家のルールだ。彼女は、それを忠実に守っているのだ。
取り立てて厳しく
こういう生真面目なところは、
「で? 相手はどういう人なの?」
受話器を右側から左に持ち替える。利き手を自由にしておきたかった。
〈それがねぇ、お母さんも全然知らなかったんだけど、インターネット? パソコンでお姉ちゃん昔から色々やってたじゃない? それで知り合ったお友達なんですって〉
ああ成程、そういう事か。
同好の士、とやらと、いい年になったのでまとまるか、という話にでもなったのだろう。
「よかったじゃない。趣味や気が合う人となら、お姉ちゃんでもうまくやっていけるんじゃない?」
〈そうなのよ。正式なお付き合いを始めたのも一年ぐらい前からだったらしいんだけど、確かにお姉ちゃん、その頃から顔色よかったしね。――ああただ、お相手さんが遠方の方だから、今の職場は辞めないといけないのがねぇ、ちょっともったいないけど〉
「働き口なんて嫁ぎ先でもまた見つかるわよ。よかったね、お母さん。お姉ちゃんの事心配してたもんね」
〈ありがとうね。これでやっと肩の荷がおりるわ〉
「ああ、それに、お姉ちゃんも別に若くないんだし、仕事よりも子供の事考えたほうが良いわよ」
〈そうだねぇ。そうかも知れないね〉
後ろから、信絵がぬいぐるみ相手にままごとをしている小さな声が聞こえてくる。
……結局、第二子は授からなかった。
信絵が二歳の時に妊娠はしたのだが、残念な事に
降りてこなかったので手術を受けたが、その時の処置があまりよくなかったらしく、以降妊娠が難しくなった。
流れた事が分かった直後、賢介は――泣いていた。いや、一緒に泣いてくれた。
それだけで、どれだけ救われたか知れない。
男の子だった。
小さかったけれど、可愛い顔をしていた。
荼毘に付したが墓に入れる気になれなくて、まだ仏壇に小さな骨壺を置いたままにしてある。
一応、賢介から桑名の家にどうするか問い合わせたのだが、酷く険しい顔をして受話器を乱暴に置いただけだった。
あちらは、墓に受け入れてくれる気はないのだ。
別に構わなかった。
賢介も春絵も、息子と離れたくなかったから。
無理に次を、というのは止めよう、という事になった。
二人目の分の貯金もある程度溜まっていたので、それでマイホームの購入に踏み切った。専業主婦をしていた春絵も働きに出る事にしたので、次いで自家用車を買った。軽の中古だったが十分だった。賢介が元々所有していたセダンがあったので、二台持ちになる。税金が嵩むのは避けられないので、せめて節約のために軽にしておこうという事になったのだ。
信絵が幼稚園に入園し、生活サイクルに慣れた辺りで、短時間のパートに出るのが決まった。
賢介の収入も上がっていたし、絶対にしっかりと稼がねばならないという事はなかった。どちらかと言えば一対一の育児に風穴をあける事のほうが目的だった。
どれだけ手の掛からない子供でも、言葉の通じない、まだまだ幼い存在と昼夜を問わず向き合い続けなければならないというのは、思う以上に心身に負担がかかるものである。正直な話、もっと大人と会話がしたかった。余所の夫婦に比べて、自分と賢介は会話が多い方だとは思うが、それしかないというのも厳しいのだ。
自由にできるお金がある事も、心理的な負担を軽くしてくれる。家計に入れろとも言われなかったが、自然と使わずに貯金として増えた。
自分のために使うよりも、家族のために使いたかった。
春絵は――自分でも驚いていた。
こんなに穏やかに生きられると言う事が信じられなかった。
あんなに全身の気が張ったような生き方しかできなかったのに、一体どこで変わったのだろうか。
生活に余裕がある。
何にも追い詰められていない。
誰とも比較されない。
恐らくは、そんなところか。
だから、姉の結婚に対しても、ああよかったね、という軽い気持ちで受け止める事ができた。
今の自分を取り巻いている歯車が、もしわずかにでも
自分自身の器の小ささは、さすがにもう理解できるし、受け止められる年だ。
秋に両家顔合わせの食事会というのがあり、春絵も呼ばれた。賢介が信絵を見ていてくれるというので、一人で向かった。
その老舗の料亭は、春絵の顔合わせの時にも使われた場所だ。畳の間に
久しぶりにあった姉は――見知らぬ女だった。
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