第8話 絶対に不幸になるから


「――んで? 早速だけど、相談事って、どれ?」


 アスラのその言葉に一瞬引っ掛かった。最初はその引っ掛かりの理由が分からなかったのだが、やがて、彼は「なに」、ではなく、「どれ」と聞いたのだと気付いた。


 まるで、相談すべき事が複数あるかのような言い方だった。


 春絵はマスターにアイスレモンティーを注文した。いつもならアメリカンを注文するところだが、あの着物の男の言った「煙草とコーヒーの匂いってね、混ざると口が下水みたいな匂いになる」という言葉がどうしても引っかかってしまったのだ。

 手元にきて一口ふくんでから、じろりとアスラを睨んだ。

「ええと――色々あって、今結婚を考えている人がいるんだけど、その、なんというか、気持ちよく結婚しようっていう気になれないというか、もやもやしたものが胸の中にあるのよ。できたらこれを解消して、話を正式に受けたいと思ってるんだけど、踏ん切りがつかないから、どうしたらいいかと――」

 行儀悪くテーブルの上に這いつくばるような姿勢でミートドリアの最後の一口を口の中に「あーん」と放り込み、もぐもぐと咀嚼して吞み込んでから、アスラは、ちらり、と目線を上げた。

「ふぅん、そっちね」

 その小馬鹿にしたような言い方に、春絵はもうかなりイライラしている。本当に、今すぐコップの中の水をこいつの顔にぶっかけてここから立ち去りたい気分だが、何を言うかが気になってそれも出来ない。

 最悪だ。

「――で、どうなんですか? どうしたらいいと思いますか?」


 とたん、少年の目がかっと開かれた。


 猫みたいに瞳孔を開いている。その瞳でじっと春絵を見据える。ぞわっと全身に鳥肌がたった。いや、これは多分、春絵という形を見ているのではない。春絵がいるあたりの空間を、ただひたすらに見ているのだ。

 まるでそこに、映画のスクリーンでもあるかのように。

「え――と、ちょっとあなた、なに――」

「早速だけど、黒毛玉にムカついてるのはお姉さんの根性が汚いだけで、あとプロポーズしてきた男とは結婚しないほうがいい。絶対に不幸になるから」

「――は⁉」

「ゆっても、お姉さんが幸せになれる結婚なんてこの世のどこにも存在しないけどさ」

 ずずず、と、音を立ててメロンソーダをすすりながら、アスラは再びちらっと上目遣いで春絵を見据えた。

「あんたさ、結局その男のことも本当には好きじゃないんだよ」

「――馬鹿言わないで。好きじゃなかったら付き合わないし結婚の相談だってしにこようとは……」

「ああ違う違う。その馬鹿みたいに真面目なメガネじゃないよ。チャラくて煙草吸ってて奥さんイジメてるモラハラ男のほうね」

「――な、なに」

 我知らず春絵の声がふるえる。

 アスラの目がじっと春絵を見据えている。――ああ、いや、違う。この目、あたしの事は見てない。ちょっとだけ視線がズレてるんだわ。


 なにこいつ。

 どこで何見てるの?

 あたしの後ろに――何を見ているの?


「不倫って、まあ色々パターンがあるわけだけどさ、あんたの場合は最悪だよ。自分以外の女にマウントとって、ああやっぱりあんたが一番なんだってまわりの女達みんなから羨ましがられたいだけなんだよね。悔しがらせたいのさ。つまりさ、結婚がなんのためにあるものかって言うのが根本的にわかってないんだよ」

 ずず、とメロンソーダがアスラの口に吸い込まれる。

「自分が一番でいたい。でもそれが100パーセント完璧に叶ってないからムカつく。ムカつくから胸の中に黒毛玉が湧く訳。結論としてはそれね。――ああ、結局根っこはそこか」

「ねっこ……」


「――お姉さんと比べられるのが厭で厭で仕方なかったんでしょ」


 ちりりん、と鈴が鳴った。


「でも仕方ないよね。特に姉妹ってそういうふうになりがちなんだよ。親のパイの取り合いだからさ。で、相手に比べてちょーっとだけ得意だったり秀でたりするものがあると、必死でそこ伸ばそうとするんだよね。で、相手に対してマウントとるの。自分の長所を相手の弱点にするんだ」

 バニラアイスが掬い上げられて、アスラの口の中に押し込まれる。

「それは多分お姉さんも一緒。あんたちょっとだけ美人だからさ、自分では容姿じゃ勝てないってわかってたんだよね。だから引き籠るの。十代の時なんか外見至上主義世代だから他の同世代の人間に対しても劣等感抱いて引き下がってさ、でも勉強だけはちょっとだけできたから、なにくそって感じでがんばって勉強はできる人になるわけよ。――でもさ」

 からん、と、中身が空になったメロンソーダのコップの中にスプーンが放り込まれる。

「勉強が出来るってつまりはインプットなんだよね。で、そのできたインプットを確定形式でアウトプットするっていう、これまたそのやり方をインプットするって作法なワケ。ほんで、これができても、労働スキルとか社会的対応力には役に立たないんだよ」

「――それが、おねえちゃんが会社ではうまくできなかった理由?」

 思わず問うと、「そうそう」とアスラはにかっと笑って――はじめて笑って頷いた。

「金を稼ぐってね、ようは人間を掌の上で転がせないと無理なわけ。いかに他人の考えを読んで、その人間がほしがってるものをすくいとれるかが八割なワケよ。インプットばっか得意でもどうしようもないの。だって、自分に情報溜め込めるヤツが勝てる世界じゃなくって、相手の欲と情報を個人別に読み取って、サンドバッグにされない程度に注意しながら、敵に回すと厄介だなって思わせられる自分を演出できないとダメなわけよ」

「つまり、おねえちゃんは、コミュニケーション力に欠けてたって事でいいわけね?」

「うん。そゆこと」


 その言葉で胸がすっとした。

 そうだ。そうよ。姉はそういうの全然だめだったのよ。人と向き合えないの、人と生きていけないの、当たり前につきあってゆくことができないの。相手の気持ちが考えられないの。だからキモいオタクでデブスで非モテでまともに働けなくて――、

 「ふふ」と、我知らず口から笑いが漏れた。

 そうよ。やっぱりあたし間違ってないの。だってすごく見てるしすごく考えたもの。どうしたらあたしを一番だって思うか。どうしたらあたしが選ばれるか。だって――選ばれなきゃいけないじゃない。

 なにに。

 何に?


 え、なんだっけ。

 あたし、何に選ばれなきゃいけないんだったっけ?


 ふぅっとアスラが溜息を吐きながら両手で頬杖をついた。

「だから、そもそも自分第一主義で自分が満足してるかどうかが一番大事で、人の話なんか聞いちゃいないインプットのイの字もできないお姉さんに、お勉強ができるわけないんだわ」



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