3. 秘密の行為

 現国の授業を聞きながら英斗はチラッと紗雪の手元を見た。そこにはすらっとした白い指の中でメタリックな赤色のシャーペンが踊っている。


 ペン先がシルバーのその赤いシャーペンは、あのオーガを倒したものに酷似している。しかし、ただの筆記具が重機関銃の効かない魔物を倒すなんてことがあるだろうか? 英斗は大きく息をつき、また机に突っ伏した。


 魔物も不可解だが、紗雪はもっと謎だった。


 キスにシャーペン、なんだよこれ……。


 寝不足の英斗はゆっくりと温かく白い睡魔に包まれていく。


 その時だった、急に突き上げるような揺れが来て机が一瞬浮き、ガン! と窓が一斉に音を立て、重低音の爆音が街に響き渡った。


 へっ?


 急いで顔を上げ、窓の外を見ると、少し先の公園で爆煙が上がり、木陰の向こうに瑠璃るり色の輝きが揺らめいていた。それはゲートだった。新たなゲートが近所にまた開いてしまったのだ。昨日の侵攻に失敗した魔物たちが、リベンジをしにまたやってきたに違いない。


「キャ――――!」「ゲートだぁ!」「ヤバい、逃げろ!」


「静かに、静かに――――!」


 先生は必死に混乱を押さえようとするが、いきなりやってきた災厄に生徒たちの動揺は収まらない。


 紗雪は眉を寄せ、しばらくゲートの方を見つめていたが、いきなり英斗の方を向きうるんだ目で何かを言いかけ、キュッと口を結び、うつむいた。


 その、口にはできない心の悲鳴に英斗は胸をギュッと締め付けられる。


「逃げよう!」


 英斗は紗雪の手を取ると引っ張った。


 一瞬困惑した表情を浮かべた紗雪だったが、うなずいてカバンを持って立ち上がる。


 二人は急いで教室を飛び出て廊下を走った。


 どの教室も大騒ぎだったがまだ逃げ始めているのは二人だけのようである。


「ちょっと待って!」


 いきなり紗雪が立ち止まり、理科準備室のドアを開けた。そして眉をひそめ、何も言わずにジッと英斗を見つめる。


 一瞬、何が起こったのか分からなかった英斗だったが、秘密の行為を狙っているのだと気が付き、ドクンと心臓が鳴った。


「来て……」


 紗雪は低い声を出し、ぐいっと英斗を理科準備室に引っぱった。


「な、なんだよ……」


 英斗は抵抗する振りをしながらついていく。


 紗雪は英斗をうす暗い理科準備室に引き込むと、ドアを閉めた。そしてジッと英斗を見つめる。


 はぁはぁという少し上がった息が静かな室内に響く。


 紗雪のうるんだつぶらな瞳には今にも泣きだしそうな悲痛な色が滲み、英斗は言葉を失う。


 街の人たちを守るために命懸けの戦いにおもむかねばならない宿命。そんな過酷な運命に押しつぶされそうになっている悲壮な少女の魂を、どう救ったらいいのかなど英斗には全く分からなかった。


「い、一緒に、逃げよ……」


 そう言いかけた英斗にいきなり抱き着くと、紗雪は強引に唇を重ねてきた。


 んんっ……!


 紗雪は昨日よりも大胆に舌を入れてくる。


 英斗は一瞬焦ったが、そっと紗雪の柔らかい舌を受け入れ、絡めていく。


 むせかえるような柑橘系の華やかな匂いに包まれながら、英斗は想いを舌にのせていった。


 しかし、情熱的に動く紗雪の舌からは『助けて』という胸の裂けるような想いが感じられる。


 紗雪はこれから命がけの戦いに赴く。昨日は魔物を簡単に撃退できたが、今日も勝てる保障などどこにもない。なぜ、紗雪が行かねばならないのか?


 思わず英斗の目に涙がにじんだ。


『このまま一緒に逃げてしまおう』そう、英斗は決意をして、唇から離れる。


 すると、紗雪は鋭い目で英斗を見据えた。ふぅふぅという上がった息遣いが伝わってくる。


 口を真一文字にキュッと結ぶと、紗雪はポケットからスプレーを出す。


「いや、ちょ、ちょっと待って! に、逃げ……」


 英斗がそう言いかけると、紗雪はプシューっと吹き付けてきた。


 うわっ!


 何とか意識を失わないようにしようと頑張ったが身体は言うことを聞かない。英斗はガクッとひざが折れ、そのまま床に突っ伏してしまう。


 英斗は窓から飛び降りていく紗雪の後姿を苦々しく眺めていた。



       ◇



 しばらくして身体の自由が戻ってくると、英斗は部屋を飛び出し、ダッシュで紗雪を追う。無力な自分に何ができるか分からないが、最後は盾になってでも紗雪を守ってやろうと英斗は心に決めていた。


「急げー!」「いや――――!」「早く早く!」


 大勢の人が叫びながら逃げてくる道を英斗は逆行しながら走る。角を曲がり、見えてきた見慣れた公園には瑠璃色の輝きが揺らめき、怪しげに黒煙を上げていた。多くの人の命を、紗雪を狙おうとする、その美しい悪意の煌めきを英斗はにらみつけ、ギュッとこぶしを握る。

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