2. 悲しき見事な嘘

 英斗は自宅に帰ると夕食も食べずにベッドにもぐりこむ。


 強引にキスした後に超人的な力を発揮したことを考えれば、力のきっかけにキスが必要なのだろう。しかし、キスで力が出るというのは全くもって意味不明であり、その荒唐無稽こうとうむけいさに英斗はめまいすら覚えた。もしかしたら自分は選ばれた人間で、自分とキスをすると超人的な力を得られるようになっているのかもしれない、とも思ってみたが、さすがにバカバカしすぎて苦笑してしまう。


 それよりも……、


『ゴメンね、英ちゃんに酷いことしちゃった』


 キスの後に真っ赤になりながらそう謝っていた紗雪の言葉を思い出す。『英ちゃん』とは仲良かった時の呼び方。四年ぶりに聞いたこの言葉には紗雪の本心が滲んでいる気がするのだ。さらに、あの紗雪のチロチロとした優しい舌遣い……。英斗は真っ赤になって毛布の中に潜り込む。


 そして、続く言葉、


『これでみんな忘れるわ』


 これを思い出して英斗は顔をしかめる。


 あの変なスプレーで自分の記憶を消そうとした……、のだろうか?


 だとしたら紗雪は、自分の記憶が残っているとは思っていないことになる。


 英斗はスマホのメッセンジャー画面を前に考えこむ。なぜ自分にキスしたのか、あの超人的な戦闘力は何なのか聞いてみたい。しかし、どう聞いたらいいか考えるとなかなか文面が思い浮かばなかった。


 紗雪が急によそよそしくなったことと、紗雪の秘密にはかかわりがある気がする。秘密を守るために本意ではなく距離を取った。そう考えるのが妥当だったし、英斗としてもそうあって欲しかった。


 紗雪は何らかの考えで自分の記憶を消した。そこには重大な理由があるだろう。それがどういうものか分からないと聞き方が難しい。せっかく再びつながった紗雪との縁。これを壊さないような聞き方をするには情報が足りなかった。


 うーん、どうしたら……。


 どう聞いたらいいか、英斗はその晩いつまで経っても寝付けなかった。



        ◇



 その夜、紗雪もまた寝付けずに起きだして窓際の椅子に腰かけていた。物憂げに窓の外を眺める紗雪の美しい黒髪を、月の光がキラキラと照らしている。


 視線の先には英斗の家があった。植木で見えにくいが、二階の奥の部屋、そこには英斗が寝ているはずだった。


 ふぅ、と、大きくため息をつくと紗雪は背もたれに深くもたれかかり、ギシっと椅子をきしませる。


 うなだれてしばらく動かなくなる紗雪。


 ポトリと涙が落ち、可愛いうさぎ模様のパジャマを濡らした。


「英ちゃん、ゴメン……。私……、どうしたらいいの?」


 そうつぶやくと静かに肩を揺らす。


「助けて……」


 紗雪は机に突っ伏した。


 満月も近い丸い月は煌々と輝き、美しい少女の苦悩を癒すかのように静かに紗雪を照らす。


 こうして若い二人の眠れない夜は更けていった。



        ◇



 まんじりともしない夜が明けた――――。


 カラッと晴れたさわやかな青空の下、にぎやかな高校生たちが二人、三人と固まりながらにぎやかに談笑し、通学路を歩いていた。


 英斗はその中に混じり、一人あくびをしながら登校する。結局結論は出なかった。判断するには手掛かりが少なすぎるのだ。


 日差しが思ったより強く、ジワリと汗が湧いてくる。英斗はネイビーのジャケットを脱ぎ、指先で引っ掛けて肩に担いだ。



        ◇



 教室につくと、すでに紗雪が座っていた。いつもと変りなく、窓際の席で背筋をピンと伸ばし、物憂げに窓の外を眺めている。窓からのふんわりとそよぐ風が紗雪のきれいな黒髪をサラサラと揺らし、英斗はその水彩画に描かれるようなうるわしい情景に思わずほおが緩んだ。


 この娘とキスをしたのだ。


 英斗は思わずあの時の舌の柔らかさを思い出し、顔が真っ赤になってしまう。そして、ブンブンと首を振って大きく深呼吸を繰り返し、雑念を振り払った。


 英斗は紗雪の隣の自席につき、平静を装いながら現国の教科書を机に並べる。


 紗雪は何も言わない。昨日あんなことがあったのに、全くいつも通りである。


 英斗は大きく深呼吸を繰り返すと、意を決して紗雪に声をかけた。


「あ、あのさぁ……」


 紗雪はチラッと英斗を見てまた窓の外を眺める。


「なによ?」


 不機嫌そうな声が響く。


「な、何か……悩んでたり……しない?」


 英斗は声が裏返りながら必死に声を絞り出す。


 紗雪はけげんそうな顔で英斗をじっと見つめ、


「話しかけないでって言わなかったっけ?」


 と、冷たく言い放つとまた窓の外を向いてしまう。


 英斗はふぅと息をつき、ゴンと額を教科書にぶつける。じんわりと伝わってくる額の痛みの中、自分は何をやっているのだろうと打ちひしがれる英斗は『うぅぅ』と喉の奥をかすかに鳴らし、にぎやかな教室の中でただ一人もだえていた。

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