5-6
北の大山脈に踏み入ってから丁度三週間。
僕は視界の先に見えたそれに、思わず天を仰ぐ。
切り立った崖に刻まれた、雪の積もった大階段は、間違いなく人の手で生み出された物だ。
何百段あるとも知れぬそれを登るのは確かに心が折れそうだが、それは良い。
そんな階段よりも、ここまでの山旅の方がずっとずっと険しかった事は間違いないのだから。
だけど、そう、その階段への道を塞ぐ様に鎮座する一匹の魔物が、僕に深い絶望を与える。
その魔物は、もう兎にも角にも大き過ぎた。
以前に遭遇した白いトロールも巨体だったが、道を塞ぐ魔物に比べればまるで子供と大人程の差がある。
二本足で立ち上がった高さは、恐らく成人男性の、五倍か、六倍。
質量はもう、何百人居れば伍する事が出来るのか、僕には想像すら付かない。
仮にあれが霜の巨人だと言われれば、僕はそれを信じただろう。
あの途轍もない巨体は、巨人と呼ばれるに相応しい物だった。
尤もその魔物の姿は人でなく、真っ白な毛皮に覆われた、巨大熊であったけれども。
しかし、本当にどうしようか。
相手は帝都の防壁であっても軽々と叩き潰してしまいそうなサイズの化け物だ。
僕はこれ程に大きな魔物は、言い伝えの中にしか知らない。
普通に考えるなら、人間が相対して良い相手ではないだろう。
……けれども言い伝えの中でなら、人はもっと巨大な魔物であっても戦いを挑み、打ち勝った事があるらしい。
具体的に言えばルッケル・ファウターシュは、ベヒーモスやリヴァイアサンと言った超大型魔物との交戦経験があったと言う。
だったら直接の末裔ではないにしろ、同じ血を受け継ぐ僕が、ここまで来て尻尾を巻いて逃げ帰るなんてあり得ない。
僕は剣技、魔術を問わず全ての手札を駆使して、名も知らぬあの巨大な魔物の打倒を決意する。
勿論、普通に考えてあの巨体に剣は殆ど無意味だった。
例え正確に心臓の位置に突き刺せたとしても、少しも届かないで毛皮と筋肉で止まるだろう。
それはもう切れ味の問題ではなく、刃の長さの問題だ。
でも僕が幼少の頃より学んだミルド流は、ただ剣を振り回すだけが能の剣技じゃない。
やると決めたら、絶望に沈んでた気持ちが嘘の様に、僕の胸は高鳴っている。
我ながら単純な物だと思わなくもないが、委縮したまま挑むよりはずっと良かった。
距離を保ち、姿を隠したままに相手の魔物を観察して一時間、考え続けた僕は漸く勝ちの目を一つだけ見出す。
心も既に定まっている。
ほんの僅かであっても勝ち筋があるなら、迷う必要はない。
姿を現した僕を見定めた魔物、巨大熊が天をも揺るがす様な咆哮を放つ。
あれだけ巨大な魔物なら、ちっぽけな人間の事なんて気にも留めないんじゃないだろうかと思わなくもなかったが、やはりそう都合良くは行かないらしい。
ズンと、魔物が一歩踏み出した振動に思わず苦笑いをしながらも、僕は詠唱を開始する。
「寒空に舞い降りる乙女を従えし、冷たき毛皮の魔狼よ」
その呼び掛けは、氷雪を司る精霊であると定められた魔術概念に対して。
僕は右手を地に突き、叫ぶ。
「その怒れる牙を剥き出せ!」
言葉と魔力に、その魔術は発動し、僕の右手を起点に巨大で鋭い氷柱が複数、凄まじい勢いで前方に伸びる。
氷による広範囲型の攻撃用上級魔術。
突然出現した巨大質量をぶつけられ、流石の巨大熊も些か驚いたのだろう。
咄嗟に防御姿勢を取り、衝撃を受けて一歩、二歩と後退する。
しかし刃の様に先端の尖った氷柱は、巨大熊を後ろに下がらせただけで、その毛皮を貫きはしなかった。
また魔術をぶつけられて後退した巨大熊も、その後退させられた事に怒りを覚えたのか、乱暴に腕を振って氷柱を砕き破壊する。
まぁ何と言うか、実に予想通りの結果である。
そもそも総じて硬い外皮を持つ魔物には、氷で切り裂いたり、槍の様な氷柱を突き刺したりする攻撃は通用し難い。
それは石礫や石柱であっても同じ事で、氷や石の魔術は魔物に対して効果が薄いとされていた。
尤も大質量で叩き潰したり、或いは氷や石の中に直接取り込んでしまう様な魔術なら話は別だが、あんな巨大な魔物を相手に使える方法ではないだろう。
氷柱を砕きながら迫る巨大熊に対し、
「その怒れる牙を剥き出せ!」
再度同じ言葉を口にして、左手を地に突く。
すると今度は僕の左手を起点に発生した氷柱が、先に在った氷柱を取り込んでより大きな規模となり、巨大熊に向かって伸びる。
だけどもう、巨大熊はそれに自分を傷付ける力がない事を理解してしまったのだろう。
防御姿勢を取ろうとすらせず、伸びる氷柱に向かって腕を振り回し、砕きながら更に僕に向かって突き進む。
互いの距離が近づけば近づく程に、相手の大きさがハッキリと実感出来る。
咆哮も地響きも大きくなって、正直圧迫感だけで潰されてしまいそうだ。
そして遂に、巨大熊は氷柱を殆ど砕き切って僕の間近に迫った。
あぁ、僕から見ればまだ少しだけ距離はあるのだけれど、巨大熊から見れば手を振り下ろせば僕を叩き潰せる距離だった。
きっと巨大熊は、もう勝利を確信しているのだろう。
否、もしかすると、そもそも戦いであるとすら認識していない可能性もある。
縄張りの中に動く物を見付けたから、取り敢えず叩き潰しておこうと、人間が家の中で虫を見付けてしまった時と同じ様な気持ちで、僕を潰そうとしているのかも知れない。
高く振り翳された巨大熊の手が、僕目掛けて振って来る。
その手に覆い隠されて、もう巨大熊の目には僕の姿は映っていない。
……故に、この一瞬こそが僕の見出した勝機であった。
ミルド流には虚ろの剣と言う技がある。
人の、と言うよりは獣等も含めて生き物には意識の間隙が存在すると言う。
またその間隙は、相手を格下と侮る心や、戦いが始まる瞬間の強い緊張、或いは逆に勝利を確信した際の気の緩みで、僅かに大きくなるらしい。
虚ろの剣は正確無比な最速、最巧の剣筋でその意識の間隙に潜り込み、相手に一撃を浴びせる技だった。
……十歳の時、兄から一本を取ってしまった、僕が得意とした剣技だ。
「その怒れる牙を剥き出せ!」
僕は三度、迫り来る巨大な手の下で、その言葉を口にする。
巨大熊には、何が起きたか理解する暇もなかっただろう。
またそれを理解させない為の、これまでの仕込みだった。
僕の右手を起点に発生した氷柱は、左手から流された魔力を纏いながら、真上に迫った手を容易に貫く。
相手の攻撃の勢いも利用して、伸びる氷柱は腕をズタズタに引き裂き、ズブリと胴に突き刺さる。
勿論、氷柱の数は一本きりでなく、複数。
頭部にも胸にも足にも、僕の魔力を纏って赤く光る氷柱は容赦なく貫通し、今までの苦戦が嘘の様に、実にあっさりと巨大熊の息の根を止めた。
それまで簡単に砕かれるばかりだった氷柱を、巨大熊に通じる凶器へと変えた技の名前は勿論、ミルド流・纏いの剣。
そして僕の魔力は赤い色を帯びるが故に、更に赤光との名で呼ばれる。
つまりは、そう、虚ろの剣の呼吸と、氷の攻撃魔術、更に纏いの剣を複合させた、今の所は僕だけが扱えるであろう攻撃法で、あの巨大熊を仕留めたのだ。
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