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拳打と呼ぶには雑すぎる、振り回された大きな拳の一撃を、僕は大きく跳び退って避ける。
振り下ろされた拳は岩場を叩き、ドガンと音を立てて砕かれた岩の破片が四方八方に飛び散った。
頬を掠めた岩の破片に、僕は少しだけビビる。
相対した魔物は恐らくはトロールだと思うのだけれど、僕の知るトロールよりも体躯が大きく、尚且つ毛皮が真っ白だ。
体毛はさて置き、身体の巨大さと言うのは即ち強さと言っても過言じゃない。
元々トロールは身体の大きな魔物で、成人男性の倍ほどの身長、数倍以上の体重を誇るが、眼前の白毛の個体はそれよりも更に頭一つ分上背がある。
そして振り下ろされた拳の威力は、高さと重さ、筋力の量から推測した、僕の想像を更に上回る物だった。
尤も、幾ら相手が強い魔物だったとしても、僕がやる事は変わらない。
「炎に踊る蜥蜴よ」
剣は抜かずに、身のこなしだけで白いトロールの拳を避ける。
下手に打ち合おうなんて考えたら、僕は剣ごとあの大きな拳で叩き潰されてしまうだろう。
もしも魔力を流して武器の切れ味を極端に増す剣技、『ミルド流、魔纏の剣』を使うのならば話は変わるが、アレは他に魔物に対抗する術のない、剣士の為の技である。
魔術師である僕は他にも魔物を倒す術を持っているから、あの技に頼る必要は特にないし、そう簡単に頼っちゃいけない。
「我が声に応え、その息を強く吐け!」
僕の言葉と魔力に、炎の魔術が発動する。
逃げ回る僕を捕まえようと両手を広げ、飛び掛かる前に大きく息を吸い込んだ白いトロールの顔が、発した炎に包まれた。
攻撃のタイミングは完璧だ。
吸い込まれた炎の熱が白いトロールの鼻腔を、口腔を、気道を、肺腑を焼く。
例え魔物であっても、体内を炎の熱に焼かれて生き残れる種はそうは居ない。
またもしも仮に生き残ったとしても、目、鼻、耳を焼かれてしまえば、視覚、嗅覚、聴覚は暫く使い物にならないだろう。
五感を半分以上も奪ってしまえば、後はゆっくりと詠唱して魔術で止めを刺せば良い。
僕は倒れた白いトロールが地を転がってもがき、やがて窒息して息絶えるのを確認してから、構えを解いて息を吐く。
北の大山脈に踏み込んでから一週間、毎日の様にと言うか、多ければ一日に複数回も魔物と交戦しているが、そのどれもこれもが僕の知る種よりも戦闘力の高い亜種ばかり。
幸い、僕は実家で戦い方の訓練を受けていたし、地脈調査科の仕事でも魔物と交戦していたからどうにかなってはいるけれど、仮に戦い慣れていない魔術師や、戦い慣れていたとしても多少腕が立つ程度の剣士では、一日だって生き延びる事は難しいだろう場所だった。
「……トロールか。猿は食べたくないなぁ」
僕の知る限りトロールは、人よりも体格の大きな猿、巨大猿を原種とする。
余程に食料に困っているなら兎も角、前日に狩った鳥の魔物の肉がまだ残っている状態で、敢えて食べる事に挑戦しようと思う物ではなかった。
倒した魔物への関心が食べれるか食べられないかだなんて、我ながら少しばかり野生化して来た気がしてならない。
けれどもそんな風になってしまう位に、この北の大山脈の環境は厳しい物だ。
帝国本領から続く魔力の通り道を辿る事で目的地の方角こそ見失わないが、雪深い地面や切り立った岸壁等の難所を避けながらの歩みは、僕の想像した以上に進みが遅かった。
僕は倒した白いトロールにはもう構わずに、足早にその場を後にする。
下手にグズグズしていたら、あの白いトロールの肉と体毛が焼ける臭いに、別の魔物が寄って来かねないから。
勿論新たな魔物が寄って来たとて、戦って勝てないなんて風には思わないが、僕の体力も魔力も決して無限ではない。
充分な休息が得難いこの地では、体力や魔力を無駄にすり減らす余裕はないのだ。
日暮れ前には、夜を過ごす為の準備に入る。
物陰を探してスペースを確保し、持って来た桶の中に魔術で水を出したら、同じく魔術で湯を沸かす。
そして湯に布を浸したら、それで身体を拭いて汚れと汗を拭うのだ。
一応言っておくと、僕は別に不衛生にする事で起きる不快感や病を恐れてこうしてる訳ではない。
いやまぁそれも少しはあるのだけれど、冷たい山風に吹かれながら肌を晒す方が、多分風邪等のリスクは高いと思う。
でもこうしておかないと、僕の発した臭いを辿って魔物が近寄って来てしまう可能性があった。
汗の臭い、血の臭い、それ等を完全に消し去る事は難しいが、少しでも薄めて夜間の魔物の襲撃を減らす為に、僕は身を清める。
本音を言えば、生粋の帝国人としては蒸し風呂に入るか、たっぷりの湯に浸かりたい。
帝国の入浴設備が世界で一番進んでいると言うのは、帝国人にとっての常識である。
他にも帝国名物と言えば葡萄酒に麦の白パン、剣闘士に戦車レースと色々あるが、僕は兎にも角にも風呂が好きだ。
特に旅の最中、大きな町に訪れた際に入った風呂で、旅の垢を落とすのは堪らない心地良さがある。
あぁ、くそう。
思い返せば本当に風呂に入りたくなって来た。
まぁそんな贅沢が、こんな危険地帯で叶う筈はないのだけれども。
日が落ちれば、僕は気配を薄める効果のある魔導具のマントに包まり、座り込んだまま夜を過ごす。
外部の警戒に難があるテントなんて以ての外だし、いざと言う時に動きを阻害する重い毛布も使えなかった。
その代わりと言っては何だが、首から下げた袋に入れた、火石と呼ばれる魔導具が熱を発して僕の身体を温める。
勿論マントも火石も、魔導具である以上はとても高価で、普通の旅人がおいそれと使える様な代物じゃない。
ある意味で、僕はとても贅沢に夜を過ごしていると言えるだろう。
尤も幾ら贅沢であっても、快適さとは全くの無縁だが。
寧ろそれ等の装備があって初めて、何とか死なずに夜を過ごせると言った具合だ。
僕は薄く周囲を警戒したまま、浅い眠りに身を委ねる。
眠って居る間は確かに普段よりも危険だが、少しでも寝て体力を回復しなければどうせ明日死ぬ。
もしこの浅い睡眠中に奇襲を受けて僕が死ぬなら、それもう運が悪いか、実力が足りなかったと諦めるしかない。
ここはそう言う場所だった。
ウォォォォォン!
グガァッ!
不意に二種類の魔物の咆哮が辺りに響き渡る。
実に運がない夜だ。
近くはないが、決して遠くもない場所で二匹の魔物が戦い始めた。
もしも視界の利かないこの闇夜で、その二匹の戦いに巻き込まれれば僕は死ぬだろう。
でもだからって視界を確保する為に、灯りを付けるなんて真似は出来なかった。
仮に灯りを付けてその場を切り抜けたとしても、その後に僕は延々と、夜が明けるまで魔物と戦い続ける羽目になる。
闇夜の光は、魔物を惹き付ける目印にしかならない。
だから僕はジッと黙って、感覚だけを研ぎ澄ませながら、息を殺してその戦いの終わりを待つ。
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