僕の痛み④・回想
「天ヶ瀬。ちょっといいか?」
土曜日に生じたアクシデントは、僕を疑心暗鬼にさせるには十分のものだった。
勘繰り過ぎと言われるかもしれないが、どうにもこればかりは野生の勘というか、理屈じゃない。
僕の願いはただ一つ。
これ以上面倒ごとを増やさないこと、だ。
……まぁとは言え、だ。
実のところ、これ幸いと思っている自分もいたりする。
そもそも土曜日のアレは、祝うようなことでもなかった。
実際父さんにも母さんにも、これまで『おめでとう』なんて、一言も言われていない。
ただの通過点、日常の延長線上の出来事に一々反応していては、ムダに精神を消耗させてしまう。
などと、週明けの月曜日の朝。
教室の隅で物思いに耽っていると、僕たちを不穏に陥れた一人に虚を衝かれる。
それにしても、能登が教室で話し掛けてくるなんて珍しい。
案の定、彼が僕に近付いてきた時、クラスの雰囲気が少しピリつく。
しかし、当の本人はそれを気にする素振りすら見せない。
少しはこちらの身にもなって欲しいところだ。
かと言って、話しかけられている以上、あからさまに無視するわけにもいかない。
僕は渋々ながらも、その声の主に応答する。
「……何か用か? 能登」
能登は僕の反応がお気に召さないのか、あからさまに顔をしかめる。
「……天ヶ瀬。聞きたいことがある。放課後、時間あるか?」
これほど分かりやすいものはない。
トラブルというものは、こうもガサツに足音を立ててやって来るものなのだろうか。
当然のことながら、これに一々付き合ってやるほどお人好しじゃない。
「悪い。今日は婆ちゃんの見舞いに行くから……」
嘘はない。紛れもない事実だ。
断り文句としては優秀過ぎる。
でも、それを許してくれる能登ではなかった。
「ちょっとでいい。何なら、お前の用事が終わるまで待ってる」
どうやら、能登の辞書には『察する』という文字はないようだ。
京都人からお茶漬けを出されようものなら、ダラダラと小一時間ほどかけて完食した挙げ句、そのまま宿泊していくほどの図太さを感じる。
ここまで言うからには、きっと逃すつもりはないのだろう。
僕は諦めて、交渉の中身を変えることにした。
「ちょっとって……。どのくらいだ?」
「お前次第だ。すぐに白状するなら、早く終わらせてやる」
何と勝手な言い分だろうか。
その言い草から、どう転んだところで早く終わらせる気など毛頭ないことくらい分かる。
「分かったよ……」
粘ろうと思えば、もう少しは粘れたのかもしれない。
しかし、どうにもこの周囲の刺すような視線が気になってしまい、膝を屈してしまった。
残念ながら、僕のネゴシエーションスキルは三流以下のようだ。
僕の返事を聞くと、能登は頷くでもなく、ギロッとした眼差しだけを残して、さっさと自分の席に戻っていった。
「あ、天ヶ瀬くん……」
見るに見かねたと言ったところか。
小岩が当たらず障らずといった様子で、声を掛けてくる。
仮にも、僕と関わりのある数少ないクラスメイトの一人だ。
万が一、僕に不都合なことが起これば、『次は自分だ』と警戒するのも無理はない。
結局のところ、自分の身が一番大切なのは、小岩とて例外ではないはずだ。
「……大丈夫だよ。僕は何もしてない」
「そ、そっか! だ、だよねっ! いやさ。なんか能登くん、凄い怒ってるみたいだったから……」
そんなことはわざわざ言われなくても分かる。
問題は、それを向けるべき対象は本当に僕なのかどうかであって……。
まぁここで小岩がいくら騒いだところで、何の解決の糸口も掴めないだろう。
「まぁ誤解があるなら解くさ。だから気にしないでいい」
「そ、そっか! 天ヶ瀬くん。何かあったら、僕に言ってね!」
そう言うと、小岩は自分の席に戻っていった。
思わず、溜息が漏れてしまう。
今後の行き先に不安を覚えつつも、僕は1限目の授業の支度に取り掛かった。
「……で、何の用だ?」
授業を終えると能登は血相を変え、僕を教室から引き摺り出し、近くの空き教室に強引に押し込んでくる。
掴まれた右手首に目をやると、軽く充血しており、その勢いに驚かされる。
能登にとって、余程お気に召さないことがあったことは明々白々だ。
呑気にそんなことを考えながらも、僕は端的に切り出す。
それにしても、これほどの厚遇で迎えられるとは予想だにしなかった。
連れ込まれた空き教室には、能登の仲間と思われる名前すら知らない男子生徒2名が待機していて、今後の展開を否が応でも想像させられる。
朝からクラスメイトたちの絶滅危惧種を見るかのような視線に耐えながら、授業を切り抜けたご褒美がコレでは、あまりにも割に合わない。
そんなことは気にも留めぬ様子で、能登は鬼気迫る形相で僕を凝視してくる。
「……なぁ、あの話本当か?」
ますます頭が混乱する。
しかし、こうも一方的に好き勝手に話を展開されると、温厚な性格とは言え流石に多少は苛立ちも覚えるというものだ。
「どの、だよ……」
僕がそう言うと、能登の仲間の一人がピクリと動く。
同時にもう一人の連れが腕を前に差し出し、それを制する。
こちらとしても暴力沙汰はご免蒙るので、非常に嬉しい心遣いだ。
能登はそれを見届けた後、ゆっくりと続ける。
「麻浦先輩から聞いた。お前、妹に暴力振るってるって……」
あまりにも突拍子のない話に、言葉を発することすら忘れてしまう。
麻浦先輩は何のつもりで、そんな根も葉もない話をしたのだろうか。
理不尽極まりない言い掛かりに思考をシャットダウンしてしまいそうになるが、それでも何とか脳みそを奮い立たせて、応戦する。
「……あるわけないだろ。そんなこと」
「そ、そうか……」
能登はそう呟くと、黙りこくる。
意外だ。もっと食ってかかってくるものと思っていたが。
「……用事はそれだけか? だったらもう行きたいんだけど」
「ま、待てっ!」
僕が教室を出ようとすると、能登に遮られる。
「もし、だ! 仮に先輩の言っていることが嘘なら、お前はどうするつもりだ!?」
「……どうもしないよ。生憎、これくらいの名誉毀損に構っていられるほど暇じゃない」
「……それが結果的に母親を悲しませることになっても、か?」
「はぁ? どうしてそこで母さんが出てくるんだよ?」
「そんなん決まってんだろうがっ! 息子にヘンな疑い掛けられて、喜ぶ親がどこにいんだよ!」
はっきり言って、能登が何の話をしているのか分からなかった。
生憎、僕の母さんはそんなことで悲しむようなタマじゃない。
むしろ、知らぬ存ぜぬを決め込み、ある程度事態が風化した頃に話を持ち出してくるに違いない。
麻浦先輩の差し金、だとかはどうでもいい。
僕はシンプルに、他人のことでここまで熱くなっている能登を、心底鬱陶しく感じていた。
「……百歩譲って能登の言う通りだとしても、それがお前に何の関係があるんだよ」
「っ!?」
その瞬間、能登は僕に掴みかかろうとしてくる。
「やめとけ……」
能登は仲間の一人に制される。
「……クソッ!」
そう吐き捨てて、彼らは教室を後にした。
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