婆ちゃんの痛み②
「トーキくん、どうしたの? 入らないの?」
あの電話の後、僕はすぐに婆ちゃんの入院している病院へ向かった。
何故かホタカ先生も付いてきた。
それとなく止めたものの、今の僕に彼女とまともに取り合うだけの時間も、精神的な余裕もなく、結局こうして彼女の暴挙を許してしまっている。
元々、母さんからは何度も聞かされていた。
もう長くはない、と。
しかし、いざこうして現実として突きつけられると、それなりに色々と思うところもある。
だから、かは分からない。
僕は病室の引き戸に手を掛けた時、何故か躊躇してしまう。
そんな僕を見かねたのか、ホタカ先生は催促してくる。
珍しく、しおらしい面持ちでいるところを見ると、彼女にも世間が言うところの最低限の道徳心のようなものがあるのかもしれない。
僕に高校生らしくだの、人間らしくだの偉そうに説いているだけのことはある。
「……何で付いてきたんですか? 非常識ですよ」
「流石に病室の中までは入らないよ。だから、キミがこの中に入るのを見届けたら帰るつもり」
「何でわざわざ……」
「さぁ? 何でかな? キミがココで動けなくなることを知ってたから、かな?」
そう言うと、ホタカ先生は不敵な笑みを浮かべる。
何もかもお見通し、といったところか。
心の内を悟られないように、とは思ったがソレを許してくれる彼女ではない。
僕の心情を無視して、ホタカ先生は追い打ちをかけてくる。
「トーキくんが今考えてること、当ててあげよっか?」
そう言って退ける彼女を、僕は反射的に睨みつけてしまう。
そんな僕の姿を見た彼女は、まるで水を得た魚のようだ。
「『やっと厄介ごとから解放された。これでもう、大した用もないのに病院へ行くこともない。あれ? でもそうしたら僕は放課後に何をすればいいんだ? どうすれば父さんや母さんの前で、長男としてのメンツを保てるんだ?』」
「うるさいっ!」
「『体裁やパフォーマンスばかりで、責任逃れしている両親も許せない。でも何より、この後に及んで自分のことばかり考えてしまう僕自身が一番許せない。そんな僕に婆ちゃんの最期を看取る資格があるのだろうか……』ってところかな?」
ホタカ先生はニヤニヤと大凡場違いとも言える笑みで、僕の心の奥底を覗き込んでくる。
悔しいかな。彼女の言う通りだ。
僕は今、ホッとしている気持ちと不安な気持ちが半々、と言ったところか。
その中には『婆ちゃんが死んで悲しい』などと言った、本来持つべきであろう人としての当たり前なんて、欠片も含まれていない。
まさか身内の死によって、こうして自分自身のおぞましさに気付かされるとは思わなかった。
「わざわざ言わなくてもいいでしょっ! 大丈夫ですよ! ちゃんと自分でも自覚してますから!」
人の気も知らずに勝手なことを言ってくるホタカ先生に、精一杯反発とも言えない言葉を並べる。
するとホタカ先生から笑顔が消え、また神妙な顔つきに戻る。
「分かってるならさ。そんなおぞましいトーキくんの姿をちゃんと見せてあげなよ。お婆ちゃんもソレを望んでると思うし」
「……アンタに何が分かんだよ」
「何も分かんないよ。でも、キミが今独りよがりしてるってことくらいは分かるから……」
ホタカ先生はそう言うと、くるりと背中を向ける。
カツカツという淡白な彼女の靴音は、入院棟の静かな廊下に不気味なまでに響いていた。
「……よし」
別にホタカ先生に煽られたから、というわけでもない。
しかし、ものの見事に心情を言い当てられ、確信してしまったのも事実だ。
今僕が果たすべきなのは、天ヶ瀬家の長男としての責任なんかじゃない。
僕は婆ちゃんの前で晒すべきなんだ。
不誠実で、薄情な自分自身を。
これから旅立つ人への、せめてもの礼儀として。
そんな決意のもと、僕は病室のドアを開く。
「あ! 燈輝っ!? お義母さん!? 燈輝が来ましたよっ!」
僕が病室に入るなり、白々しくも涙ぐんだ母さんの叫声が室内に鳴り響く。
そんな母さんの声に呼応するように、婆ちゃんは薄目で入り口の僕を見つめてくる。
直近では、週3〜4回ほど病院に来ていた。
徐々に弱っていく婆ちゃんの姿はこの目で見ていたし、近頃は僕が病室に来ても寝てばかりいた。
だから、近い内にこうなることは理解しているつもりではあった。
「お兄ちゃん! 早く! コッチ!」
一足先に来ていた風霞は、泣きじゃくりながら催促するように大きく手招きする。
風霞に促された僕は、ベッドの横に陣取る担当医と看護師をかき分け、婆ちゃんのベッドに近づく。
「燈輝。婆ちゃんに声を掛けてやれ」
父さんに言われ、僕は婆ちゃんを見下ろす。
僕を見据えるその目はうっすらと開かれ、今にも完全に閉じてしまいそうだ。
本人は、必死に抗おうとしているのだろう。
口元には、重々しくのしかかるように人工呼吸器が取り付けられ、鼓動に合わせてゆっくりと上下している。
その時が近いことを、痛感させられる。
それにしても不思議な感覚だ。
さっきホタカ先生からも指摘されたように、僕は今、少なからずホッとしている。
でもそれは何に対して、なのか。
もう放課後に見舞いに行かなくていいから?
もう母さんたちの体裁を保つことに加担しなくていいから?
いや、違う……、気がする。
確かめてみたい。
今から僕が婆ちゃんに投げかける言葉は、きっとこんなシチュエーションでは相応しくない。母さんたちにも叱られるだろう。
でも、どうしても聞いてみたいことがある。
それに、だ。
僕はどうやら、自分自身の痛みを無視し続けた結果、他人の痛みが分からなくなってしまったらしい。
自分の身内が死の淵にいることに、こうしてある種の安堵感を覚えていることが何よりの証拠だ。
そんな僕だからこそ、踏みにじれる空気がある。
「ねぇ、婆ちゃん。こんな風にされて幸せだった?」
その瞬間、父さんと母さんは僕に刺すような視線を浴びせてくる。
何が言いたいんだ?
今更、身内ヅラなんて滑稽だ。
これまでロクに見舞いに来なかったクセに。
僕がトラブルに巻き込まれたことに気付かなかったクセに。
僕のこと、何も知らないクセに。
僕の呼びかけに婆ちゃんは呼吸器マスク越しに、ピクリと少し驚いたような様子を見せた。
しかし、すぐに頬を緩ませ、コクリと首を縦に振って笑って見せた。
その直後、病床の横に配置してある心電図モニターが、けたたましい音を響かせる。
「先生っ! 心停止ですっ!」
そばに居た看護師が叫声をあげる。
「除細動、準備!」
それを聞いた担当医は、すぐに心臓マッサージを始める。
僕は呑気にも、映画やドラマでお馴染みのこの光景に、ある種の感動のようなものを覚えていた。
それにしてもこの気持ちは、なんだろう。
何故かさっきまで霧がかっていたものが、すっかりと晴れたような感覚だ。
理由は分かっている。
僕は婆ちゃんから、一つの答えをもらったんだと思う。
婆ちゃんが残したあの笑顔の意味は、きっと僕にしか分からない。
その後、担当医の懸命な蘇生措置が続けられたが、婆ちゃんが息を吹き返すことはなかった。
ただでさえ、余命幾ばくもない末期がんだったわけだ。
蘇生が叶ったところで……とは思うが、医者として最低限の処置をしなければならないのだろう
そう思えば、人の命とは何なのか改めて考えさせられる。
一通り手を尽くしたところで、担当医は処置の手を止める。
淡々と目元にペンライトを当てた後、自前の腕時計に目を落とす。
「5月31日、16時50分。ご臨終です」
「お袋っ!」
「お義母さん!」
「お婆ちゃん!」
担当医の宣告の後、僕以外は婆ちゃんの前で泣き崩れた。
感心してしまう。
咄嗟にこういった行動が取れないと、人間と見做されないのだろうか。
もしそうであれば、僕が一端のヒトとして振る舞えるようになるには、天文学的な時間が必要だ。
担当医と看護師は、嗚咽する僕たち家族に向き直ると、静かに礼をしてくる。その後ゆっくりと背中を向け、病室を後にした。
それを見計らったかのように、チッという舌打ちの音が聞こえた。
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