第36話 逆鱗(第4章 完)
矢辻 久隆。彼は半年以上前に力を使い果たして消えた。由美は間違いなく、その瞬間を感じ取っていた。ならば今、《伝》を使って心に入って来るのは誰なのか。
「ほんとに、久兄なの?」
息も絶え絶えな親友の顔を見ながら、居なくなったはずの者と意思を通じる。昼から連続する異常な事態に、由美の思考は限界だった。
『ああ、本物だよ。遅くなって済まなかったね』
「さ、紗奈子が!」
『大丈夫、彼が助けるよ』
「彼?」
『新しい代人だよ。憐れな少年だ』
高くも低くもない、艶やかな声色となって伝わる意思は、由美が焦がれていた相手そのものだった。久隆はこれまで嘘をついたことはない。その証拠に、紗奈子の首を掴んでいる無兆の指が徐々に緩む。
『ほらね。《操》と言っていたかな? 良い名だね。俺も使わせてもらおうかな』
完全に解放された小柄な少女は、無造作に地面に落とされた。倒れ込んだまま身動ぎすらできない様子だが、胸が上下するのだけは認識できた。
「紗奈子! くっ……」
由美は親友の名を呼び、駆け寄ろうとする。しかし、全く動くことができなかった。
自分の身体が自分のものではない感覚は知っている。つい先刻、哉太が由美に使っていた力だ。それは《調》と《伝》を併用する。そして今、由美と繋がっている相手は、哉太ではない。
「どう、して?」
口から音として発することのできない中、疑問を頭に強く浮かべる。
『話がしたくてね。《動》はだめだよ。俺も由美の大切な友達を喰わせたくない』
辛うじて動く瞳は、紗奈子の隣に数体の無兆が立つ姿を捉えた。つまりは、先程と同じく人質だ。由美は、自身の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「話って?」
『髪を切ったね。綺麗だったのに残念だ。でも、似合ってるよ。それに、身も心も強くなった。驚いたよ』
甘い言葉が頭の中に響いた。淡い感情が湧き上がり、身を委ねてしまいたくなる。おそらく、四ヶ月前ならそうしていただろう。
荒魂に家族を奪われた少年と出会い、由美は知らず知らずのうちに変わっていた。
「そんなこと、いいから」
世間話などしている場合ではない。
虫の息の紗奈子や、大怪我をしているであろう誠をこのまま放っておくのは危険なのだ。すぐにでも病院へ連れて行く必要がある。
『手荒な手段だったのは謝る。話を聞いてほしい』
「早く、して」
『ああ、そうするよ』
言葉と感情が噛み合っておらず、明確に嘘だとわかる。他者を傷付けておいて、悪気など微塵も感じていなかった。
根拠はないが由美は確信していた。友人二人をこの場に呼び寄せたのは、この男だ。
想いを寄せていた青年とはまるで別人だった。しかし、既視感のある力は、疑う余地を残してくれなかった。
『由美、俺と一緒に来てくれ。君や俺の力は、こんなところで戦うためのものではない』
「どういうこと?」
『君はあの連中に利用されているんだよ。俺はそれを知ってしまった。だから消えた振りをした』
「ふり、だったの?」
『そう。かなり綱渡りだったけどね。おかげで記憶に残らず、奴らの記録からも消えることができた』
「でも、私は、覚えていたよ」
由美は九ヶ月前の絶望を思い出した。初恋の相手を自分のせいで失ってしまった。周りは忘れても、自分だけは違った。
罪への大きな罰でもあるが、心の隅では彼を覚えている唯一の人間だという優越感も抱えていた。そのはずだった。
『ああ、由美が覚えていてくれるのはわかっていたよ。戻ってくるための、蜘蛛の糸だからね。とても感謝している』
「感謝……」
『もっと話をしていたいんだけど、そろそろ力も限界が見えてきた。まずはこの《操》に任せて、一緒に来てほしい』
硬直させられていた由美の足が、一歩二歩と動き出す。どうやら、このまま移動させようとしているらしい。
「待って」
『大丈夫、ゆっくり話せばわかってもらえるよ。急かしてしまうのは申し訳ないけどね』
有無を言わせぬ力に、由美は抗うことができない。少しずつではあるが着実に、紗奈子の元を離れていた。
「待ってって!」
必死の嘆願は無視される。紗奈子を人質に取られているのでは、《動》で脱出するのも叶わない。
『由美の気持ちにも応えてやらないとね』
由美にとってそれは、枷を外すに足る一言だった。
「ふざ、けるなぁ!」
全身に《動》を巡らせる。《操》を引きちぎったように手足が自在に動く。両手に刀を造りだし、由美は紗奈子を囲む無兆に突進した。
『何をしているんだ!』
「うるさい!」
由美は生まれて初めて、心の底から怒っていた。再び紗奈子を捕らえようとする無兆に斬りかかり、突き刺し、蹴飛ばした。
『馬鹿なことを』
由美の攻撃を掻い潜った無兆が、紗奈子へと手を伸ばす。敵の数は多く、一人では捌ききれない。そんなことはわかっていた。だが、同時に信じてもいた。
「哉太!」
『任せろ!』
力強い意思が、心地よく響いた。それに合わせるように、二体の無兆が動きを止める。
すかさず胸部を斬り裂く。霧散する無兆を横目に、由美は自分が微笑んでいることに気が付いた。
腸が煮えくり返る程の怒りを覚えながら、安心に笑う。相反する感情が両立しているのが不思議だった。
『俺の相棒を唆すなよ』
『どうして、入ってこれる』
『教えてやるかよ』
由美の中で二人の男が言い争っている。 その間も由美は休まず刀を振り続け、周囲の無兆を蹴散らした。
『そろそろ出てけよ。いくら出してもすぐに潰してやる。それと、あんたの居場所に組織の人間を向かわせた』
「今日は引いて。またちゃんと話を聞かせて」
哉太の台詞は虚勢だ。実を言えば、由美はもう限界だった。感情が昂っていたからこそ、力が絞り出せた。これ以上戦えば、自身の存在を失いかねない。
『くっ……』
賭けとも交渉とも言えない駆け引きは、現在の代人が勝利した。久隆から由美への《伝》が切断される。
あまりにも呆気ない幕引きだった。もしかしたら、向こうも危うかったのかもしれない。
由美はぼんやりと、今になって初恋が終わったことを理解した。
「紗奈子……」
朦朧とする意識と震える脚は、言う事を聞かない。倒れた友人に駆け寄ろうにも、なかなか前に進まなかった。
『大丈夫、山根さんも佐々木も、怪我はしてるけど大したことないよ』
「《調》で?」
『そう』
気持ちを察したのか、哉太の優しい意思が届いた。《調》を使ったのであれば、その発言は正しい。気の抜けた由美は、アスファルトに尻餅をついた。冷えた汗が体温を奪い、身震いをする。
「そうだ、あのね」
『ん?』
「私、哉太のことが好き」
疲労に疲労を重ねた心身は、いとも容易く本音を告げた。
第4章 晩秋に舞う想い 完
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