第30話 姉妹
空が濃い紫に変わった頃、哉太は帰宅した。ちょうど夕飯の用意をしようと台所に立ったところだった。気まぐれで結衣が作ることもあるが、基本的には矢辻家の食事事情は由美が握っている。
「おかえり」
「うん」
無表情の哉太にかける言葉など、それ以上思いつかなかった。送られたメッセージの意味を問うことを躊躇う程度には、人の心をわかっているつもりだ。
「夕飯は食べる? 今日は鶏の照り焼きだよ」
「うん」
まな板に乗った鶏もも肉を見て、なんとか話題を見つける。以前に哉太が美味いと言ってくれた献立だ。
哉太からの連絡の後、慌てて材料を買いに行った。由美にできることはこれくらいだろう。
「じゃ、できたら呼ぶからね。母さんは遅くなるって」
「わかった」
一言返事をして、哉太は自室に向かった。力のない後ろ姿を見送り、由美はため息をついた。
結衣からは『外で食べてくる』との連絡を受けている。哉太が振られたというのが事実ならば、結衣の選択には納得がいく。拒絶した直後に食卓を共にするなど、あまりにも気まずいだろう。
せめて美味しいものを食べさせてやろうと、由美は鶏肉の下ごしらえにとりかかった。
二人きりの食事は、実に静かなものだった。優子と結衣がいない夜は初めてではないはずなのにだ。
これまでは互いに気を遣いつつも楽しくやれていた。少なくとも由美はそう思っている。しかし、今夜ばかりはそうもいかなかった。
「ご馳走様、美味かったよ」
「うん」
先に食べ終え箸を置いた哉太は、食器を持って流しへと向かう。自分で使ったものは自分で洗うというのが、この家での鉄則だ。
「なぁ」
由美が作り置きを温めた味噌汁をすすった時、流しの水音に混じって哉太の呼びかけが聞こえた。
「んー?」
椀を置き、視線だけを横に向けた。皿を洗いながら同居人はぽつりぽつりと話し始める。
「最初から期待はしてなかったけどさ」
「うん」
「ああもはっきり言われるとな」
「そっかぁ」
気にはなっても、具体的な話を聞いてはいけない。かといって耳を塞ぐつもりもない。哉太の話したいことに相槌を打つのが、由美としての誠意だと思っていた。
「中途半端にしないのが優しさなんだろうなってのはわかるけどさ」
「うん」
「でも、それなりに凹んでる」
「うん」
皿を洗い終えた哉太は、それ以上喋ることなく食卓を後にした。由美も呼び止めることはしなかった。
由美も食べ終わったが、自室に戻る気にはなれなかった。ソファーに座り、テレビの電源を入れる。頭に入ってこないニュース番組を、なんとなく眺めていた。
一時間ほど経っただろうか。物音に気付き視線を向けると、小柄で綺麗な女性が立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
作った笑顔を向けた結衣の頬は、少し上気して見えた。崩れかけた化粧は、彼女なりに気合を入れていたことが窺えた。
「お酒飲んできたんだね」
「あ、ばれた?」
「そりゃ、わかるよ」
軽く鼻につくアルコールの臭い。優子と結衣が夕食時に嗜むこともあるため、全く馴染のないものではない。ただ、仕事上の付き合いで飲んで帰ることの多い優子とは違い、この状態の結衣を見るのは久しぶりだった。
「お水いる?」
「うん、お願い」
若干ふらつきながらソファーへ腰かける結衣に、水の入ったコップを手渡す。
「ありがと」
「いいえー」
コップを受け取った結衣は、勢いよく中身を飲み干した。
「由美、聞いた?」
結衣は少し気怠そうに、隣に座った由美へ尋ねる。主語はなくとも、何についての話かは見当がつく。
「ふわっとね」
「そっか」
背もたれに体を預けた結衣は、軽くを目を閉じた。あまり酒は強くないのに飲んだという事は、相応の理由があるはずだ。
「実はね、そんなに悪い気はしてなかったんだ」
「うん」
「でもね、だめだった」
「そっか」
哉太と同じように、会話は断片的だった。それでも、本当の姉妹と思えるほどの義姉のことだ。何を言いたいのかは概ね理解できていた。
「だからね、ちゃんと断ったんだよ」
「うん、聞いた」
「ほめてー」
「はいはい、偉いね」
どちらが姉かわからないと思いながら、抱き着いてくる結衣を受け止める。やや癖のある髪を撫でながら、由美は香水と酒の混じった匂いを嗅いだ。
「やっぱりね、私は恋愛なんてしちゃだめだなって」
「うん」
結衣にはこれまで、何人かの交際相手がいた。由美の知っている範囲では二人。両方とも相手の方から、結衣の元を去っていった。
「私はね、きっと幸せになれないんだよ。いくら楽しくても、忘れられなくて、全部好きになってあげられない」
「うん」
胸の中で、鼻をすする音が聞こえた。由美はそれに気付かない振りをする。
結衣は家族を亡くした際、将来を約束した恋人も一緒だったそうだ。代人になるほどではないが荒魂を認知できるため、おぼろげながら幸せだった記憶が残っていると聞いたことがある。
由美はそれが逆に彼女を苦しめていることを知っていた。忘れてしまえば楽なものを、中途半端に覚えているため、怒りと悲しさが消えずに燻っているのだ。過去を引きずっているのは、由美となんら変わらない。
「明日から元に戻るって約束したから、今日はちょっと落ち込むね」
「うん、いいよ」
二人の背中を押した自覚はあるため、由美の中にも罪悪感は生まれていた。同じ苦しみを共有する哉太なら結衣の傍にいられるのでは、と考えなかったわけではない。
「あとね、もう遠慮しなくていいよ。由美には幸せになってもらいたいからさ、気にしないで」
「え?」
結衣は軽く充血した目で、由美を見上げた。先程とは違い、自然な笑みだった。
「もしかして気付いてない?」
「何のこと?」
相変わらず主語がないため、話がかみ合わない。今回は、義姉の意図を察することができなかった。
「そっかー、気付いてないならいいよ。とにかく、私はもう終わらせたから正直になってもいいよ」
「あっ……」
少しだけ核心へと近付いた言い回しに、ようやく由美は理解した。
「そんなわけないよ。結衣姉さんの勘違い」
「うーん、そうなんだ。じゃぁ、今はそういう事にしておくね」
「もう」
「じゃ、おやすみ。ここ柔らかくて好き」
「ちょっと……」
言うだけ言って、結衣は由美の胸で寝息を立て始めた。化粧は落とした方がいいと思うので、後で起こしてあげよう。そう思いつつ、小さな身体をソファーにそっと横たえる。
「そんなわけ……」
由美は天井に目を向け、否定の言葉を途中でやめた。
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