第10話 指導
結衣に連れられた哉太は汗だくだった。多少息も上がっており、どうやら走って来たようだ。
「ごめん、遅くなった」
肩で息をしながら軽く頭を下げる。今日から代人としての訓練をすること、優子が不在の際は由美が指導をすることは、事前に説明済みだった。
教室で人に囲まれていたことを言い訳にせず、素直に謝罪する哉太は実直な少年だった。そういうところに悪い気がしないため、由美は適切な距離感が掴めずにいた。
「ううん、先に来たのは私だから」
「そう言ってもらえると」
「修練所はこっち」
「うん」
冷たすぎる気もするが、これが今の由美にできる精一杯の対応だった。
「うわ、暗っ」
襖の奥を覗きこんだ哉太は素直な感想を口にした。小学生の頃の自分と同じ反応に、由美は思わず含み笑いをしてしまった。
「ん? なに?」
「なんでもないよ。荷物置いて裸足になって入ってきて」
「お、おう」
訝しむ哉太を振り返らず、由美は修練場の奥へと進んだ。この中であれば表情を窺われることはないという、逃げ腰の意図だ。自嘲を禁じ得ないほどに情けない話でもある。
「えーと、入っていいの?」
「どうぞ、大股で五歩進んだらそのまま正座して」
「わかった……」
初めてなのだから、気が引けるのも当然だ。それなのに、冷たい言い方になってしまったことに、由美は静かに落ち込んでいた。
未だにどう接していいのかわからない自分が恥ずかしくなる。結衣やあの人とは大違いだ。
由美がここに初めて入ったのは五年前。あの時に説明してくれた人は、もうどこにもいない。半年前に消えてしまった相棒、名を
十二歳年上の男を、由美は『久兄さん』と呼び慕っていた。引き取られる形で代人となった由美と異なり、久隆は直系での矢辻の人間だった。代々荒魂と戦ってきた一族の末裔は、強く優しかった。
由美は自身の長い髪に触れる。それまでなんとなく伸ばしていた髪を切ろうかと話した時、綺麗な黒髪だと褒められた。今でも忘れない、十四歳の夏のことだった。それ以来、髪は整える程度にしか切っていない。
自分のせいで二度と会えなくなってしまった初恋の人との、唯一残された絆のような気がしている。
「座ったよ」
「あ、うん」
物思いに耽っていた。ここに来るとどうしても考えてしまうのは、良くない事だとは認識できている。それでも頭から消えないのは、罪の意識と美しい過去が自分を縛っているのだろうと感じていた。
だが、今はそんなことをしている場合ではない。哉太が正しく力を使えなければ、久隆と同じことになってしまいかねないのだ。だからこそ、力の使い方を身に着けてもらう必要がある。ひと月も経たないうちに、新月の夜はやって来るのだから。
「目を閉じて、しばらく静かにしていて。段々と自分が別の場所にいるように感じるから」
「んー」
夢想の空間を認識するのにも、コツというものが存在する。自分の時はそれだけで数日を要した記憶がある。由美は急がずゆっくり、哉太を待つ覚悟をしていた。
「地面だけがある感じだけど、これでいいのか?」
「えっ、もう入れたの?」
慌てて由美も腰を下ろし、目を閉じた。数秒後、哉太の状態を確認する。問題なく、訓練の準備ができていた。
「すごいね、こんなにすぐできるなんて」
「よくわからないけど、大丈夫ならよかった」
「それじゃ、続きを説明するね」
「よろしくお願いします、先輩」
「なっ……」
冗談とも本気ともつかない哉太の言葉に対応できず、由美はそのまま説明を開始した。この社交性は、どこから来るのだろうか。
「母さん、じゃなくて先生から話があったと思うけど、後衛になってもらう人には前衛への支援と指示をやってもらいます」
代人には大きく分けてふたつの役割がある。それらは便宜上、前衛と後衛と呼ばれていた。
前衛は《動》や《造》を主に、荒魂との直接戦闘を行う。対して後衛は《調》を使い荒魂の兆候や動きを把握し、《伝》で前衛にそれを伝達するのが役目となる。半年前までは由美が前衛、久隆が後衛を務める組合せだった。
力の才覚を持つ者でも、その中で得手不得手が存在する。由美自身は、どちらかと言えば前衛向きであった。そして久隆は後衛の力のみの才覚を発揮していた。
同時期に重複がないのは、古くから力を与える神の作為だと伝えられていた。四つ全てを最低限の水準以上使いこなしてしまう由美は、過去の歴史でも異端の部類に入るそうだ。
「で、俺は後衛というわけだ」
「そう、あの時も《調》と《伝》を使っていたから。覚えてないと思うけど」
「だな、全然だよ」
「ここなら力の使い過ぎで消えることはないから、ゆっくり覚えていって」
「月末までにはなんとかしないとな」
「無理はしないでね」
荒魂との戦闘時、前衛と後衛それぞれに危険が付きまとう。
前衛はわかりやすく、直接的な危害だ。一般人と同じく、喰われてしまえばその存在を失うことになる。それ以外にも、力の加減次第では自身の体を傷付けることも少なくない。大小の擦り傷や軽い捻挫程度であれば、日常茶飯事のような感覚でもある。
対する後衛は、力の使い過ぎによる存在の消滅だ。特に《調》には注意を払う必要がある。広い範囲を長時間認識しようとすれば、それだけ消耗も激しくなる。
記録によると、荒魂の出現範囲は徐々に広くなっているという。だからこそ、適切な範囲と適切な時間の設定が重要になっていた。
『なんとなく、わかってきたかも。今、使えてるよな?』
由美の頭に直接、哉太の意思が届く。
説明を一通り聞いた後、哉太はふたつの力を実践していた。理解の早さもさることながら、いとも簡単に行使してしまうのは、由美にとって驚き以外の何ものでもなかった。
「もうできちゃうんだね」
『手探りだけどな』
「うん、しつこいけど、無理しないでね」
哉太は久隆と違って、由美の危機であっても力を加減できるだろうか。
慎重になりすぎていることはわかっているし、哉太にとっては他人のことだ。申し訳ないとは思いつつも、由美は二人を比較してしまっていた。
『ところでさ、ひとつ確認したいことが』
「なに?」
哉太が力を使ったまま話しかけてきた。何かを感じ取り、意図的に話題を変えようとしたことはなんとなくわかる。それが代人同士の意思を繋げる《伝》というものなのだ。
由美は申し訳ないとは思いつつ、心を覗かれた恥ずかしさを覚えていた。それもきっと部分的に伝わってしまっているのだろう。
『あのさ、なんて呼んだらいい?』
「へ?」
由美の持つ哉太の印象とは違う、実に遠慮がちな問いかけだった。
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