第37話
「まあでも、失恋って言い方は適切じゃないかもね」
と、私は二人に言った。
不思議なもので、激情が過ぎ去ったのは三人同時だった。よもぎが、ハンカチを土屋に差し出した。土屋はそれを目元に当てて、私に回した。受け取ったハンカチで、目尻を撫でる。
「どういうこと?」
まだ紅潮しているよもぎが、首を傾げた。
「フラれたからって、別に気持ちが失せる訳じゃないよね。フラれて悲しい、っていうだけであって」
二人はぼんやりと視線を交わし、ばらばらに頷いた。
そう。フラれたくらいで消える恋なら、こんな苦労はしていない。全ての感情が水溶性ならよかった。そうすれば、涙ともに排出できたのに。
現実を受け入れても、相変わらず私はよもぎが好きだし、多分よもぎは土屋が好きだし、間違いなく土屋は私が好きだ。
引き続き、私たちは沼底にいた。
雫の言葉が蘇る。それもいいか、と思った。
どれだけ藻掻いても抜けられない泥沼なら、いっそ、もっと深く潜ってしまえ。
「これは妥協案なんだけどさ」
私は二人の目を順に見つめて、言った。
「三人で付き合おうよ」
「は?」
「へ?」
「私と土屋とよもぎの、三人で」
「………………………は?」
「………………………へ?」
「もちろん、ずっとじゃないよ。誰かと誰かが両想いになるまで、期間限定。残った一人は恨みっこなし。ちゃんと祝福する」
土屋とよもぎが、UFOでも目撃したかのような目で私を見た。
つまりこういうことだ。よもぎが土屋を口説き落とすか、私がよもぎを取り戻すか、土屋が私を振り向かせるまで。誰かが勝利条件を満たすまで、三人で付き合う。
誰か一人が本命を諦めた瞬間に終わる、チキンレースだ。
しばらく私の提案を咀嚼した後、土屋が、充血した目をすがめて言った。
「水谷、意味分かってる? それ、私と草野さんも付き合うってことだよ。それでいいの?」
「良い訳ないけど、まあ、いいよ」
身を焦がす嫉妬の火は消えない。消えないけれど、私は土屋に抱く感情は、それだけじゃない。単純な枠に嵌め込むには、私は彼女のことを知り過ぎてしまった。
嫌いだ。世界一嫌い。嫌いだけど、プラネタリウムくらいなら一緒に行ってやってもいい。放課後のファミレスで、愚痴を聞いてやってもいい。なんなら、ポテトを分けてやってもいい。
断絶するくらいなら、付き合ってあげても、いい。
お終いを拒否したくなる程度には、もう、繋がってしまった。
「よもぎはどう? 私と付き合うの、いや?」
「そこでうちに振る!? い、い、嫌じゃないよ。嫌なわけないじゃん。嫌じゃない、けどぉ」
ちらりと視線が土屋に向く。
「琥珀ちゃんと、蓮花も付き合うってことだよね」
「…………………まあ、そうなるね」
私が渋々肯定すると、土屋の目が爛々と輝いた。怖い。
「やる」
「今、あんたには聞いてないっての」
「私はやる。ちゃんと、草野さんのことも大事にする」
へーへー。
「えっ、あっ、うん。それなら。でも、三人で付き合うなんて、いいのかなぁ」
よもぎが俯いた。確かに、今の世間からは後ろ指を指されるかもしれない。本当に成立するかも分からない。
でも。
「私たちがいいなら、それが正解なんだよ。私たちの恋なんだから」
規範も常識も、知ったことか。
二人は顔を見合わせ、ややあってから、思い思いに頷いた。
ああでも、と土屋が唇の片方を吊り上げる。なんというか、いやらしい顔だった。
「テストが必要だね。本当に三人で付き合っていけるかどうか。全員が、それを受け入れられるかどうか」
「それは、まあ。でもやってみなくちゃ分かんないでしょ」
「だから、やってみるんだよ。今、ここで」
ひどく嫌な予感がした。
「……何を?」
「それはまあ、やっぱり、ね?」
ね。じゃないが。
土屋が、親指で自らの唇をなぞった。
「三人でしようよ、順番に。見ている一人も含めて、誰も拒否しなければ、多分私たちは三人で付き合える」
馬鹿かこいつ。馬鹿だった。恋愛馬鹿。
けれど、まったく理屈が無いわけじゃない。確かに、キスの一つも認められないなら、三人で付き合うなんて不可能だ。おままごとじゃないのだから。
私はちらとよもぎを見た。よもぎは自らの口元を押さえながら、惚けたような顔をしていた。
「よもぎ、嫌なら言ってね」
「べ、別に嫌じゃないよ!」
思った以上に強く否定された。「ていうかむしろ、」と聞こえた気がした。おいおい。
「順番、どうしよっか?」
「……ジャンケンで、勝った人から時計回り」
土屋の質問に、私は目を逸らして答えた。ここで「じゃあ私とよもぎから」と言えるほど、厚顔じゃない。彼女に経験が無いことを知っているから、なおさらだった。
反論はなかった。
「じゃ、いくよ。じゃーん、けーん、」
ぽん。
私たちは拳を振り上げ、そして、私が勝った。人生で一番緊張したジャンケンだった。なにしろ、私の左隣にはよもぎがいる。
「じゃあ、うちと蓮花からだね」
よもぎが、スカートの裾を両手で掴んだ。くしゃりと生地がたわむ。上気した顔と、淡く色づいた唇に視線が吸い寄せられた。心臓が、にわかに早鐘を打つ。
「うち、初めてだから。お手柔らかにお願いします……」
よもぎがスカートを離して、ぴんと背筋を伸ばした。目を閉じる。睫毛の長さが際立った。柑橘系の香りが鼻先を掠めて、頭がくらくらした。
視界の端で、土屋が腕を組んでいた。一見、平静。けれど、指がブラウスに食い込んでいる。
けれど、それだけだった。
「する、よ?」
その確認が、よもぎに対するものなのか、それとも土屋に対するものなのか、自分でもよくわからない。
ただ、二人ともが小さく頷いた。
そうして私は、よもぎにキスをした。
それは、パチパチと火花が散るような土屋との口づけとはまるで違う、甘やかな交感だった。柔らかな感触に、ぶわっと幸福感が溢れ出る。微熱が全身に行き渡って、指先がじんわりと痺れる。
どうにかなってしまいそうだった。
「じゃあ、次は私と草野さんだね」
私たちの唇が離れた瞬間、割り込むように土屋がよもぎの肩を掴んだ。耳まで真っ赤になったよもぎが、ふにゃふにゃの口調で呟く。
「こ、今度は琥珀ちゃんと? うち、頭がおかしくなっちゃいそう……」
「覚悟してね、草野さん。私、水谷の百倍上手いから」
は?
文句を言う間もなく、土屋の唇がよもぎのそれに重なった。思わず目を逸らしそうになるけれど、ぐっとこらえる。目を覚ました緑の目をした怪物をなだめすかして、私は、私の好きな人が恋敵とする口づけを睨めつける。
よもぎの腕が、土屋の腰に回った。何だか妙に長い気がした。気のせいか? いや絶対長い。長いっていうか。
「ぅンっ」
目をとろんと溶かしたよもぎが、荒い鼻息を吐いた。それで気づいた。こいつ!
衝動のまま、土屋の尻にミドルキックを叩き込む。土屋が、飛び上がってスカートを押さえた。
「いった⁉︎」
「なに舌入れてんの⁉」
「別にキスの種類まで決めてなかったと思うけど?」
「お前ほんとに百万回死ね!」
よもぎは、へたへたとコンクリートに座り込んだ。濡れた唇をぽかんと開けて、両目をうるうると潤ませている。小さな口からは「あぅ」とか「ぴゃ」とか、意味のない音が漏れていた。
「最後は、私と水谷だね」
「……ねえ、よく考えたら私たちは別に要らなくない? 何回かしてるわけだし」
「違う違う。草野さんの前で、がポイントなんだよ」
嘘つけ。絶対自分がしたいだけだろ。私は目を伏せた。土屋が近づいてくる。よもぎが、私たちをぽうっと見上げる。ごめん、と心の中で謝罪した。
「じゃあ、はい」
「……私からすんの?」
「もちろん。水谷の提案でしょ」
土屋がそっと目を閉じる。記憶が蘇る。あの校舎裏のキスが、なんだか随分と昔の出来事のような気がした。
土屋の瞼が、ぴくりと痙攣した。降ろした手も震えている。彼女が、緊張しているのだと分かった。
きっとあのときも、こうして震えていたのだろう。私が気づかなかっただけで。
可愛いところもあるじゃん、と思った。
強張った頬に手を添える。燃えるように熱い。私の心臓に、温かなものが込み上げた。それは恋ではないけれど。
私は、唇を寄せる。
世界で一番、嫌いな君に口付けをする。
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