第36話
真昼の空は、絵の具をぶち撒けたように濃い青色をしていた。
頬を撫でる風に、まとわりつくような湿度がある。遠くに入道雲が浮いていた。真っ青な夏が、近づいていた。
演劇部の練習、という名目で借りた屋上の鍵をポケットに落とす。
私は呼吸を整え、タオルで包んだ得物の感触を確かめた。刃先が真昼の光を反射して、ぎらりと光る。
この鋭さなら、十分だと思った。
ややあって、背後から足音がした。
「まさか、屋上に呼び出される日が来るなんて思わなかったよ」
吹きさらしの屋上に現れた土屋琥珀は、十全にヒロインだった。
「それで、何の用かな。告白なら大歓迎なんだけど」
「よもぎがあんたのスマホに仕込んだアプリのこと、気づいてたでしょ」
土屋の眉がぴくりと動いた。
「…………なんの話?」
「とぼけなくていいよ。居場所がバレてることを承知で私をホテルに連れ込んだのは、よもぎへのアピールだよね」
土屋は否定しなかった。髪を耳にかける。きらりとピアスが陽光を反射した。ヒロインが悪魔に成り下がる。
「あんたって、ほんっっっとに、最悪」
あの朝の路上で、土屋に感じた違和感の正体がこれだった。彼女は知っていたのだ。知っていて、私とよもぎの仲を裂こうとした。友情さえも残らないくらい、徹底的に。
土屋が肩をすくめた。
「よく気づいたね、水谷」
「私のこと、馬鹿だと思ってんの?」
「そんなわけないよ。世界で一番好きだよ」
「あっそ。でも、分かってるよね。このままじゃ、私たちは誰も幸せになれない」
土屋が腰に手を当てた。私が何を言いたいのか、測りかねているようだった。かまわず、続けた。
「AはBが好きで、BはCが好きで、CはAが好き。誰も後ろを振り向かないなら、誰か一人が舞台を降りなきゃいけない。例え、強制的にでも」
そして私は、抱えていた得物の柄の感触を確かめ、かぶせていた布を取り払った。
ぎらぎらと、銀色の刃が太陽を反射する。
その暴力的な眩しさに、土屋が息を呑んだ。
「……なに、それ。どうせ玩具だよね」
「試してみる?」
私は、手にした包丁の根本に親指の腹を押し当てた。ちくりとした痛みが走り、指先に赤い玉が浮かぶ。土屋の瞳が、揺れたのが分かった。
「私は草野よもぎが好き。それで、あんたが嫌い。土屋琥珀のことが、世界で一番嫌い」
私は包丁を正面に突き出して、告白するみたいに朗々と言った。
「だから土屋。私のために、死んでくれる?」
「───いいよ」
土屋は柔らかく口角を上げて、幸せそうに即答した。
「水谷のためなら、死んでもいいよ」
「……即答とか、こっちがびびるんだけど」
土屋は何も言わず、ブレザーのボタンを外した。沁み一つない真っ新なブラウスが、光を浴びて白く輝く。袖から腕を抜く仕草は、どこか恍惚としていた。
「包丁、まだ偽物だと思ってる?」
「さあ、どうだろ。わかんない」
滲んだ手汗をスカートになすり付ける。私は彼女の正面に立ち、包丁の柄を両手できつく握り直した。
清涼な風が、私たちの間を吹き抜けていく。
息を吸う。吐く。
止める。
室内靴で、コンクリートを蹴りつける。
引き伸ばされた一瞬毎に、土屋が近づく。この期に及んで、土屋は微笑んでいた。そういうところが本当にむかつく。ここで死んでもいいと、本気で思っていそうなところが気持ち悪い。
百万回死ね。
そう思いながら、私は確かな殺意を込めて、彼女の柔らかな腹に身体ごと包丁を突き刺した。
†
そしてもちろん、私の包丁は粉々に砕け散った。ライオンボード製なんだから当然だ。
ぐしゃぐしゃに潰れたアルミフォイルが、ちかちかと光を乱反射する。根本に仕込んでいたカッターの刃が落ちて、カラカラと音を立てた。
土屋が、「ぐえぇ」とわざとらしい断末魔を上げた。後ろ向きに倒れ込み、大の字になって寝転がる。光を遮るように手の甲で目を覆って、言う。
「死ぬかと思った」
「嘘つき」
「ほんの少しだけ、本物かもと思ってたよ」
「それなら、ちゃんと逃げてよ」
「言ったよね。水谷になら、殺されてもいいって」
冗談じゃない。どうして私が、土屋ごときのために人殺しになってやらなくちゃいけないのだ。
腰を屈め、ボードの欠片と銀紙をブレザーのポケットに押し込んだ。反対のポケットからスマホを取り出す。
電波の先にいる、もう一人の当事者が笑った。
『妬けちゃうなぁ、もう』
私は赤い受話器のマークを押して、通話を切断した。給水塔の裏から、よもぎが姿を覗かせている。スマホをポケットに仕舞った彼女は、弾むような足取りで私たちの元へやってきた。
私は土屋の脇腹を爪先で小突いて、言った。
「これで、赦してあげる」
「え?」
「これまでの土屋琥珀は死にました、ってこと」
よもぎと話して決めたことだ。あいつは一回刺されたほうがいい、ということで意見が一致した。とはいえ、本当に刺すわけにはいかない。妥協点がこれだった。
「ねえ、土屋。さっきも言ったけど。私、あんたのこと、大嫌いだから」
「……うん」
「ちゃんと、一生、死ぬほど嫌いだから」
私は土屋の枕元にしゃがみこんで、その頬を指で突いた。柔らかな肌に、伸びた爪が刺さる。補足するように、付け加えた。
「だから、もう二度と、土屋のこと、忘れたりしないよ」
空を見上げる土屋の目尻に、透明な水が滲んだ。涙が、こめかみを伝う。見るまに、ぽろぽろと涙が零れていく。背後で、よもぎが息を呑む気配がした。
私は土屋の涙を指で掬って、舐めた。
塩辛い味がした。
「う、うあ、うああああぁぁ」
土屋が両目を覆う。彼女は、ついに声を上げて決壊した。泣いている姿は、かつての「はーちゃん」にそっくりだった。
ずず。鼻を啜る音に振り返る。よもぎもまた、静かに泣いていた。その姿がぼやける。いつの間にか、私の視界も滲んでいた。喉に熱いものがこみ上げてくる。嗚咽が口を衝く。
こうして私たちは、三人が三人とも失恋した。
胸の痛みは耐え難いけれど、一人ではないから、まあ、どうにかなる気がした。
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