第35話
昔から、「何がしたい?」と訊ねられることが苦手だった。
身を焦がすような欲求とか、祈るような渇望という類のものを、味わったことがない。
だから、何事にも正解と不正解があって、ラベルが貼られていればいいと思っていた。そうしたら、正解だけを選んで生きていけると。
でも本当は、そんなことは不可能だ。だって私には感情がある。冷めていたつもりの心にも、ちゃんと、どうしようもない嫉妬や欲望があった。
だから、正しい道だけを選び続けるなんて出来っこない。そもそもそんなもの、初めから存在しないのかもしれない。
きっと誰しもが、ままならない感情を抱えて、泥の中をもがくように前へ進んでいるのだろう。
私も。
───彼女も。
私は荒い息を無理やり肺から追い出して、呼吸を整え、図書室の戸を引いた。
「よもぎ」
「……蓮花」
貸出カウンターに腰掛けた私の友達が、静かに私を見つめた。
美浜大附の図書室は、そこまで規模の大きなものじゃない。私は室内の様子を探り、よもぎの他に誰もいないことを確かめてから、後ろ手に引き戸の鍵を掛けた。
横殴りの夕陽が、ワックスで磨かれたフローリングを赤赤と燃やしていた。まるで燃え盛る辺獄だ。さもなくば、血の池か。
「よもぎ」
「……今更、なに」
敵意の籠った目で、よもぎが私を睨みつける。瞼が痙攣していた。草野よもぎの表情筋は、怒ることに慣れていない。
私は足を踏み出して、言った。
「本当のことを、言いに来たの」
「本当のことって、何。そんなのもう知ってるよ。蓮花は、琥珀ちゃんと付き合ってるんだよね。それも、あんな場所に行くくらい」
「違うよ!」
違う。付き合ってなんかいない。いる訳がない。キスはしたしラブホには行ったけど、セフレでもない。我ながら言っていることがあまりにも支離滅裂だけど、どうしようもなく真実だ。
「本当に違うんだよ。土屋とは、付き合ってない」
よもぎが、蔑むような目で私を見た。
「ラブホから出てきたのに?」
「やってないから! 誓って本当!」
「じゃあ、どこまでしたの? キスはした?」
「………………………ごめん。それは、した」
「何回?」
「……全部で、五、六回くらい……」
答えた瞬間、厚さ五センチはありそうなハードカバー本が飛んできた。鈍器と化したそれは、私の頬を掠め、壁をしたたかに打ち据える。
よもぎは席を蹴って立ち上がり、硬直した私を怒鳴りつけた。
「やっぱり付き合ってんじゃん! 蓮花の嘘つき!」
「違うんだってば!」
「何が違うんだよぉ! 何一つ違くないよ! ちゅーまでして! このすけこまし! 女たらし! 嘘つき間女!」
ボールペンが、消しゴムが、付箋が、貸し出しノートが宙を舞う。
額を打った桜餅型の消しゴムを見て、私は咄嗟にスカートのポケットに手を突っ込んだ。指先に触れる感触を確かめて、手のひらに握り込む。
そして。
「本当に、本当に違うの。だって、」
だって、私が。
「私が好きなのは、よもぎなの!」
ありったけを込めて叫ぶ。
筆記用具の雨の中、私はよもぎに近づき、強引にその手を取った。握り込んだものを、彼女の手のひらに載せる。
よもぎが目を見開いた。
手の中には、ずっと渡し損ねていた、たこ焼きの形をした消しゴムがある。
「私は、よもぎが好きなんだよ……文化祭を、一緒に見て回ったときからずっと……」
「───はぇ。え、え。なに言ってるの、蓮花」
「嘘ついて、ごめん。裏切って、ごめんね。こんなこと言われて、迷惑だろうけど。でも、よもぎが好きなんだよぉ……」
じわりと目尻に熱いものが込み上げる。
私は右の手首で涙を拭う。いつの間にか、ミサンガは無くなっていた。走ったときに、どこかへ引っ掛けたのだろうか。
それとも、私の願いを叶える対価に、千切れて落ちたのか。
そうかもしれない。だって私は、ずっと言いたかった。
好きだ、って。ただそれだけを。
私の告白を聞いたよもぎは、ぽかんと口を開けていた。
「う、うちが好き? 蓮花が? い、いい意味分かんないよぉ。なんで、それで土屋さんと蓮花がキスするの⁉︎」
「そうだね! 私も意味分かんないよ! でも、私は土屋と取引したの。土屋がよもぎに手を出さない代わりに、私に手を出してもいい、って」
「は、は⁉︎───ちょっと待って。それって、それって、」
徐々に、よもぎの顔に理解が広がる。すとん、とその肩が落ちた。
「土屋さんも、片想いしてるってこと?」
私は力無く微笑む。よもぎの全身から、くたくたと力が抜けていく。
「幼馴染なんだ、私たち。最近思い出したんだけど」
「な、な、」
何じゃそりゃあ! と、よもぎが絶叫した。
†
貸出カウンターの内側は狭くて、二人は座れない。私たちは二人して書架の前に座り込み、ぽつぽつとお互いの話をした。
「絶対さぁ、年上の女の人だと思ったんだよねぇ。二十八歳くらいの、なんかすっごい稼いでそうな人。だからさぁ、その子未成年ですよって。手を出すの犯罪だから止めてください、って。そう言ってやろうと思ってたのにさあぁぁぁ」
「えっと……」
「よりにもよってうちの親友とか、どうなってんねん、って感じだよ。そりゃあ蓮花は可愛いけどさぁ。そこまでややこしいことにしなくてもいいじゃん。女の子同士ってだけでもう充分ややこしいんだよこっちはさぁ!」
あの日、あの場所によもぎがいた理由は単純だった。
最近は、迷子や誘拐対策として、GPSでスマホの位置情報を発信するアプリがある。これをこっそり、恋人のスマホにインストールしておけばどうなるか?
つまりそういうことだ。
「でも、そこまでやる?」
「心配だったんだもん。噂だって、否定してくれなかったし」
「あー……」
「その。うちね、好きな人のスマホとか覗きたくなっちゃうタイプで……」
まじか。でも、そういうところもちょっと可愛い。なんて、私も相当イカレている。
「蓮花はさ」
「うん」
「あのとき、うちが怒った理由、分かってくれたんだね」
「……私が嘘をついたから、でしょ」
「ん」
こてん。よもぎが、私の肩に頭を乗せた。藍色をした空の色を浴びて、彼女の肌は青白く染まっている。
あのときよもぎは、私が土屋とラブホに行ったことに怒ったわけじゃない。それを私が隠していたことに傷ついたのだ。
「うち、蓮花に裏切られたと思ったんだよ。応援してるって言ってくれて、嬉しかったのに。本当は裏で二人が付き合ってて、うちのこと馬鹿にしてたんだって、そう思って」
ぐす、とよもぎが小さく鼻を啜った。
「ごめんね。蓮花のこと、そんな風に疑っちゃった」
「……いや、そりゃそう思うでしょ。どう考えても、悪いのは私と土屋じゃん」
「でもさぁ」
「ていうか、私と土屋がその、キス……とかしてたのは、」
「え? あ、うん。それ自体はまあ、うち的には別に」
「あ、そうなの⁉︎」
「本命がいるってことは聞いてたし。そんなことで、蓮花を嫌いになったりしないよ。うちは、蓮花に嘘つかれたことのほうがショックだったよ」
そしてよもぎは、さらりと付け加えた。
「だって、親友だもん」
うっかり泣きそうになった。それくらい沁みる言葉だ。私はよもぎに恋をしているけれど、だからって友情を捨てたい訳じゃない。
男女の間に友情は成立しない、なんて命題がある。でも、そもそも相手が異性でも同性でもそれ以外でも、恋の何パーセントかは友情で構成されていると、そう思うのは、私の勘違いだろうか。
「でもそうかぁ。蓮花が、うちをなぁ」
「……はい」
「ね。うちのどの辺が好き?」
「そういう、すぐ言質を取ろうとしてくるあざといところ」
「ひどーい。うち、あざとくないもん」
「それは無いよ」
「ふふ、なんかくすぐったいね。うち、女の子に好きになってもらうの、初めてだ。ずっと、好きになるばっかりで」
「……ん」
「言ったっけ。私も、蓮花のこと、いいなって思ってたよ。文化祭の舞台で見てから、ずっと。クリスマスとか、結構気合い入れてプレゼント選んだりして」
「……そっか、ありがと」
「あそこでうちが告白してたら、オーケイしてくれた?」
「正直、微妙。びびっちゃってたかも」
「そっか。そうだよね。うん、わかるよ」
「でも、多分その頃から好きだったよ」
「照れるなあ、もう」
「やっぱり、土屋が好き?」
「うん。ごめんね」
「いいよ」
知ってたから。
そうして私は、散々な遠回りの果てに、ようやく人生初の失恋をして、少しだけ泣いた。
「───ごめん、もう大丈夫」
「うん」
「よもぎは、土屋のどこがいいの?」
「えぇ。どこだろ。アプリで会ったとき、ずっと話を聞いてくれたんだよね。それからちょっと陰があって母性くすぐられるところと、後はまあ、顔かな」
「顔」
「ぶっちゃけね」
よもぎは、照れくさそうに笑った。
「今でもやっぱり、土屋の一番になりたいと思う?」
「思うよ。私も、蓮花に嫉妬してるもん。幼馴染なんて反則だ! ずるい! って」
よもぎがくふくふと笑う。それを見て、私は、ああやっぱりこの子が好きだなぁ、と思う。
それで、肚が決まった。
私は今も、よもぎの一番になりたい。
でも、それだけじゃない。
友達には、幸せになって欲しい。緑の目の怪物に囚われることもあるけれど、それだけが私の、私たちの心の全てじゃない。
あのこじらせまくった幼馴染は、私の恋敵だけれど、同時に幼馴染でもある。
だから。
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