泥中に咲く
第34話
週明けの月曜日、私はよもぎと一言も口を利かなかった。土屋とも。
部活に参加したはいいものの、そんな調子で演技に集中できるはずもない。講堂を使っての通し稽古で、私は幾度となく台詞をトチり、芝居を止めた。挙句、山辺部長から早帰りを命じられる始末だった。
周囲の気遣うような視線を浴ながら、私は、この数週間の出来事を振り返っていた。
結局。
結局、何が正しかったのだろう。どの選択肢に、目に見えない正解のタグが付されていたのだろうか。
───違う。
本当は、分かっているんだ。
よもぎに恋人ができたと知ったとき、素直に祝福するべきだった。土屋の甘言に、乗るべきじゃなかった。たとえ上っ面だけでも「おめでとう」と言い、心に蓋をすべきだった。
私の心には、緑の目をした怪物が住んでいる。そいつは、名を「嫉妬」という。
私は怪物になってしまったのだ。よもぎを奪われたくなくて、土屋の手を取ってしまった。低俗な独占欲と暴走する恋心に振り回されて、どうしようもなく道を間違えた。
本当は、祝福だけが正解だったのに。そんなこと、分かっていたはずなのに。
一人きりの部室で、私はのろのろと支度を終えた。そして、引き摺るような足取りで、廊下を歩き出したときだった。
「先輩、ちょっといいですか」
よく通る、けれど硬質な声に振り返る。
髪をシュシュで結んだ後輩が、番人のように仁王立ちしていた。
「お姉のことで。少しだけ、時間貰えますか」
私に、断る権利があるはずもなかった。
†
「で、何があったんですか」
部室に戻るなり、雫は、きりりと眉を吊り上げて私を詰問した。
「この前の日曜から、お姉の様子が変なんです。友達に呼ばれたからって、朝一で家を出て。でも帰ってきたらめちゃくちゃ凹んでて」
「……そうなんだ」
「そこへ来て先輩も様子が変じゃないですか。言いましたよね。私、顔を見たら大体分かるんです。何かあったんですよね。ね?」
直向きな眼差しに、私は思わず目を逸らす。
「雫って、もしかしてシスコン?」
「話、逸らさないでください」
「……ごめん」
私はパイプ椅子に腰を下ろした。雫も、背もたれを抱えるように座る。
私に語れるものがあるとするなら、真実しかない。けれどそのためには、よもぎが打ち明けてくれた秘密を明かす必要がある。彼女の秘密は、家族であっても、いやむしろ家族だからこそ、隠しておきたいことのはずだ。
私の逡巡を悟ったように、雫が言った。
「私、お姉の事情、知ってますよ」
「……事情って?」
「お姉の恋愛遍歴を知ってる、ってことです───ああもう、先輩分かり易過ぎ。やっぱり、そういう話なんですね」
私の答えを待たずに、雫はパイプ椅子の背もたれに額を埋めた。
「でも、それならしょうがないですよ。結局、受け入れるかどうかは先輩の自由ですし……」
一人で納得したようにため息を吐く。
「お姉って、昔っからそうなんですよね。惚れっぽいくせに望み薄な相手ばっか好きになって。ちゃんと選べばいいのに」
明らかに、雫は誤解をしていた。私は首を振る。
「違うよ。いや、そういう話なのはそうなんだけど、多分誤解してる」
「えっ」
雫が目を丸くした。
「先輩、お姉に告白されたんじゃ……? それでお互い気まずくて、みたいな話、だと思ったんですけど」
「そういう分かり易い話じゃないんだよ、これは」
「お姉の恋愛は常にややこしいですけど」
「今回は多分、雫が想像してる三倍はややこしいよ」
この混線した事情を、雫に伝えてもいいのだろうか。でも、この子は本心から姉を心配しているし、何も言わずに立ち去ることを許してもらえる雰囲気じゃない。
何より私自身、誰かに話してしまいたかった。
懺悔をしたかった。私の、どうしようもない誤謬について。
結局私は、私が落ちた泥沼について、洗いざらい説明した。よもぎと土屋の交際と、私が土屋と交わした取引について。日曜の朝、ラブホ前での遭遇に至るまでの全てを。赤面せざるを得ないような場面も、必要最低限の範囲で伝えた。
「……えぇえぇぇ……」
初めは好奇心を浮かべていた雫は、最終的にシュシュで飾った頭を抱えた。
「いや、えぇー……」
はらりと落ちた前髪の隙間から覗く目は、「なんなのこの人」と雄弁に語っている。
「正直に言って良いですか」
「はい」
「ドン引きです、先輩」
「……はい……」
「お姉を取られたくないから、その恋人の土屋先輩と取引して? キスして? ラブホまで行って? ごめんなさいちょっと私、何言ってるか分かんないんですけど……」
「ごもっとも……」
雫の健全さが眩しい。舞台の上では三角関係を「面白い」と評した彼女も、リアルではそういう反応になる。当たり前だ。創作と現実は違うのだから。
「言い訳とかあります?」
「ないよ。ない、けど」
「けど?」
「多分、嫉妬で頭がおかしくなってたんだよ。それは今もなんだけど」
「緑の目の怪物、ってやつですね」
緑の目の怪物。「green eyed monster」は、シェイクスピアの四大悲劇のひとつ『オセロー』において、高潔なムーア人の将軍、オセローを陥れる旗持ちの男、イアーゴの台詞に登場する言葉だ。語源を辿れば、同性愛者の詩人、サッフォーに行き着くとも云われる。
私は彼の台詞を誦じた。
「将軍、嫉妬に気をつけなさい。こいつは緑の目をした怪物で、人の心を弄ぶのです……」
「土屋先輩が、先輩のイアーゴですか」
「じゃあ、よもぎがデズデモーナ? それで言ったら、最終的に私がよもぎを刺すことになるけど」
イアーゴの計略により、オセローは最愛の妻、デズデモーナの不貞を疑う。そして彼は、自らの手で妻を殺害する。それが「オセロー」の大筋だ。
「私、イアーゴが実はオセローを好きだったって解釈読んだことありますよ。ネットで」
「止めてよ」
もちろん、私たちの関係が古典演劇の配役と噛み合う訳がない。私はオセローほど高潔ではないし、土屋はイアーゴほど屈折してはいない。呆れるほどに一途なだけだ。
「それで、先輩はどうするんですか」
雫が、私に向かって尋ねた。それは質問というより、確認に近い口調だった。
「まさか、ここで舞台を降りるつもりじゃないですよね」
「……それは」
「お姉を傷つけるだけ傷つけて、それで逃げるとか許しませんから。責任、取ってくださいよ」
苛立ちを隠しもせずに、雫が言葉を重ねる。彼女は怒っていた。清潔で、健全な怒りだと思った。
「大体先輩は、どうしてお姉が怒ったか、ちゃんと分かってるんですか?」
「……どうして?」
どうしてって、それは。
「私が、土屋と一緒にいたから」
「ちーがーいーまーすー。いや、それもあるでしょうけど。いいですか。お姉は、怒ってたんじゃなくて、傷ついてたんですよ。そこのところ、よく考えてください」
傷ついていた。よもぎが?
───うちが何に怒ってるか、わかってる?
「オセローは、デズデモーナを信じきれませんでした。先輩は、どうなんですか?」
私は草野よもぎの恋敵だ。それを知られてしまったら、嫌われると思っていた。
でも。
私はよもぎが好きで、よもぎは土屋が好きで、土屋は私が好きだけど。
それでも。
「……私、よもぎに謝らなきゃ」
こぼれ落ちた私の言葉に、雫の唇が綻ぶ。彼女は部室の壁時計を見て、私に教えてくれた。
「この時間なら、まだお姉は学校にいますよ。今日は、図書委員の当番日ですから」
「───ありがとう!」
パイプ椅子を蹴って立ち上がる。駆け出そうとした直前、ふと、この聡明な後輩に、尋ねてみたいと思った。
「あのさ、雫」
「なんです?」
「前に、ABCの話をしたじゃん。『十二夜』の。覚えてる?」
「AはBが好きで、BはCが好きで、CはAが好き?」
「そう、それ。雫なら、どういう筋書きにする? ハッピーエンド前提、双子トリック抜きで。私、どうやっても思いつかなくて」
「……はあ? 先輩って、やっぱり馬鹿なんですか? そんなの、一つしか無いじゃないですか」
雫が挙げた答えは、完全に私の想像の埒外で。
それなのに、あまりにも見事にハッピーエンドなものだから。
思わず私は、笑ってしまった。
「雫。あんた、脚本もやってみたらいいよ」
「……考えときます」
一度だけ、手を伸ばして小さな頭を撫でる。くすぐったそうに首をすくめながら、雫は仄かに頬を赤らめた。
そうして私は、風みたいに廊下を駆ける。
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