第33話

 一身に朝日を浴びたよもぎは、燦々と光り輝いていた。刺繍入りのブラウスに薄ピンク色のカーディガンを羽織り、まだ肌寒い五月の朝に、小さな指を震わせている。


「蓮花」


 よもぎが、ぽつりと私の名前を呼んだ。

 鳶色の瞳が、ひたと私を見つめる。硬く凍りついた表情からは、何の感情も読み取れなかった。

 私はただ、茫然と立ち竦んでいた。

 疑問符が頭の中を駆け巡る。どうしてここに? こっそり跡をつけてた? 探偵を雇った? 発信機? そんな、漫画じゃあるまいし。でも。

 違う。

 過程や手段なんて、今はどうでもいい。本当に、本当にどうでもいい。今ここによもぎがいる。私が土屋とラブホから出てくる姿を、真正面から見られた。それが全てだ。

 だから、そう。

 誤解。誤解を解かないと。


「あの、よもぎ。これは、」


 違うから、と言おうとして、喉が詰まる。いったい全体、何が違うのだろう。デートした。事実。ラブホに泊まった。事実。キスした。事実!

 事実だらけだ! 縋る場所があるとすれば、「一線は超えてない」という一点だけ。と思ったけれど、一線って何だろう。どこからが浮気か、みたいな話か? ヤッてなければ無罪放免とでも言うつもりか、水谷蓮花。

 そんなわけがない。

 そもそも、このデートを浮気だと言ったのは、他の誰でもなく私なのに。今更、何を言い訳できるつもりでいるんだろう。

 土屋との取引が、いずれ破綻することなんて、とっくに分かっていた筈なのに。

 淡々と、よもぎが言った。 


「……なんで、蓮花が、琥珀ちゃんと出てくるの?」


 手のひらが湿る。喉がカラカラに乾いていた。沼底で溺れるような息苦しさを抱えたまま、私は答えた。


「それは、土屋が、」


「琥珀ちゃんが?」


「土屋が、」


 一緒に入らないと、よもぎを抱くって私を脅すから。

 いやなんだそれ。頭おかしいのか。おかしいな。私も土屋も、とっくに狂っている。

 私を庇うように、土屋が一歩前に出た。嫌な予感がした。


「水谷が私の本命だからだよ」


 案の定、土屋は平然と言ってのけた。

 雷に打たれたみたいに、よもぎがよろめく。土屋が振り返り、同意を求めるように私を見た。


「ね、水谷」


 今すぐ塵芥になって、この場から逃げ出したかった。

 それなのに私の両足は、根が生えたように一歩も動かない。分かっている。逃げる場所なんか、どこにも無いのだ。

 よもぎが、ちっちゃな手で拳を握る。燃えるような視線に焼かれて、羞恥と情けなさに全身が燃え上がった。いつだって春風みたいな彼女から、こんな目を向けられたのは、初めてだった。


「蓮花。それ、本当?」


「……嘘じゃない」


「土屋さんと付き合ってるって、うち、言ったよね」


「………聞いた」


「土屋さんが蓮花と一緒なのは、いいよ。驚いたけど。しんどいけど。でも、それはいい。そういう約束だもん。だけど、なんで蓮花は黙ってたの。なんで、教えてくれなかったの」


 よもぎの目が、きゅっと細くなる。


「友達なのに」


 裏切りを指摘されて、私は口を噤む。

 答えは分かっている。理由なんて、ひとつしかない。

 よもぎに嫌われたくなかったからだ。

 よもぎに、彼女の恋を邪魔する障害物が私だと、知られたくなかった。嫌われたくないから嘘をついて、他の人に奪われたくないから取引をした。

 それが全て。どこまでいっても、私は私のことしか考えていない。

 本当は、とっくに気がついていた。昔から、私は真面目でもいい人でもない。

 ただの、小利口な臆病者だ。

 よもぎが、上下の歯を擦り合わせた。


「うちが琥珀ちゃんのこと本気で好きなの、知ってるくせに」


「ごめん」


「うちが何に怒ってるか、わかってる?」


「……ごめん」


 他に言える言葉はなかった。

 いつの間にか、よもぎが目の前にいた。右手が振り上がる。ぱん。容赦のない平手が、私の頬を強かに打ちすえた。


「だいっきらい」


 彼女は、目尻に大粒の涙を滲ませていた。頬なんかとは比べ物にならないくらい、心臓が痛かった。

 そして。

 その一部始終を、土屋は、平坦な瞳で見つめていた。

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