第32話

 正面から視線がかち合う。土屋の目尻には、涙が滲んでいた。

 鉛を飲んだみたいに息が苦しい。

 透明な涙が一滴、その頬を伝った。ずきずきと、胸が痛む。

 泣くとか、ずるい。

 こんな綺麗な子が、私の愛が欲しくて泣いているなんて反則だ。

 だけど。

 それでも、と思う。

 やっぱり心は、思うようには動かないから、私が彼女に差し出せるものなんて、思い出の他に何一つありはしないのだ。


「ごめん」


 と、私は言った。


「やっぱり、土屋のことは、好きになれない」


 そう答えた瞬間、土屋の目から光が消えた。

 背筋がぞわりと冷える。


「じゃあ、もういいよ」


 私の両手首を片手でまとめて、ふかふかの枕に押し付ける。恐怖よりも驚きで、身体が固まった。無造作に伸びた手のひらが、ブラの上から私の胸を鷲掴む。


「もう、犯すから」


「っ、ばか、何つまんない冗談言って、」


「本気だけど?」


 胸を、ぎゅっと強く握られた。声が漏れる。柔らかい皮膚に与えられた鋭角な刺激が、ぴりぴりと脊髄を駆け上がっていく。


「っ、いた、痛いよ、土屋」


「痛くしてるから」


「なんで、女同士でお、犯すとか、おかしいよ。そんなの、出来ないじゃん」


「出来るよ」


 恐ろしい言葉と裏腹に、土屋の指先が、私の肌の上でひどく優美に蠢いた。痛みから解放された反動なのか、その繊細さに全身が反応する。瞼の裏に火花が散った。


「はは。随分気持ち良さそうだね、水谷」


「なんで、こんなこと」


 薄桃色の逆光に照らされた土屋の顔が、涙でぼやける。彼女の唇が、私の涙を吸った。濡れた唇は頬を滑り、私のそこに重なる。なめらかな舌が侵入し、私を嬲った。


「───どう? 嫌だよね? 好きな子がいるのに、別のやつに好き放題にされるなんて」


 指が、乳房と腹部を往復する。勝手に腿が跳ねて、私の腰に座っている土屋の尻を叩いた。酷薄な彼女の顔が、私を見下す。


「きっと、最低な気分だよね。惨めで、悲しくて。一生、忘れられないくらい」


「……つちや?」


「それで、何年経っても思い出すんだよ。私のことを。誰かを嫌ったり憎んだりする気持ちは、簡単には消えないから。約束なんかよりずっと強く、心に残るから」


「あんた、何言って、」


「ほら、どうしたの水谷。もっと抵抗してよ。ちゃんと、気持ち悪いって思ってよ。私のこと、嫌いなんだよね」


 土屋の手が、私の喉を掴んだ。


「もっと嫌いになってよ」


 ぐぅ、と私の喉が鳴った。


「どうせ『好き』の一番をくれないなら、一番嫌いになって」


 私の怨敵が、泣きそうな顔で言う。


「世界で一番、私を嫌いになってよ」


 違う。

 そうな、じゃない。土屋はもう、はっきりと泣いていた。目頭に透明な宝石が浮かび、溢れては、ぽたぽた落ちる。それは私の頬や首に滴って、肌を優しく撫でていく。

 私は小さく身じろぎをした。手の拘束が、あっさりほどける。自由になった右手を彼女の後頭部に回して、髪の中に指を差し込んだ。土屋は逆らわず、くたりと力を抜いて、私に身体を預けた。

 髪を撫でる。幾度も繰り返し、綺麗な黒髪を梳いてあげる。

 それだけが、私が彼女にあげられるものだと思った。


 どれくらいそうしていたのだろうか。胸元から、ふすふすと鼻息が聞こえた。むくりと顔を上げた土屋は、子供みたいに赤い頬をしていた。ふ、と息が漏れる。


「……なに」


「いや、なんか、妹みたいで」


 抗議のつもりなのか、鎖骨の下に頭突きされた。痛い。


「痛いってば」


「好きだよ、水谷」


「うっさい、死ね」


 どれほど健気であっても、絆されてはあげられない。私には私の恋がある。


「疲れた。早くシャワー浴びて寝ようよ」


「一緒に入る?」


「ばか」


 やなこった。


 備え付けのパジャマとかは無いらしい。シャワーを浴びて、着てきた服を着直した。交代で土屋が浴室に入る。

 待たずに寝てやろうかと思ったけれど、さすがに寝付けなかった。

 やがて出てきた土屋は、ワンピースとブラジャーを手にしていた。薄手のブラウスの裾から、チラチラと薄紫の下着が見えている。羞恥心とか無いのだろうか。私は無言でベッドの片側を叩いた。

 もぞもぞとシーツの合間に入ってきた土屋に、私は口を尖らせた。


「ちょっと、こっち来すぎ。もっと端に行ってよ」


「落ちるからやだ」


「嘘。全然いけるじゃん」


「無理だって」


 せめぎ合いの末に、二の腕同士が触れ合う距離で落ち着いた。今の私たちには、このくらいの距離が適切だと思った。肌は触れずに、けれど体温だけが伝わる、このくらいの距離が。


「寝るけど、襲わないでよ」


「はいはい」


「フリじゃないからね」


 なんて軽口を叩く程度には警戒していたけれど、結局、私は当たり前のように睡魔に身をゆだねた。起きたとき、妙なことにはなっていなかったから、土屋にも最低限のモラルはあったらしい。

 私たちはごく普通に着替えを済ませ、歯を磨き、出来るだけ何食わぬ顔でフロントの前を通り過ぎた。紫の蛍光灯ではなく、朝の白い光に照らされたフロントは、なんだか気が抜けるくらいに平凡だった。

 差し込む朝日に導かれて、私の気分はどこか晴れやかだった。重苦しい夜を越えて、何かが好転したような気がしていた。


 そうしてラブホテルを出た私たちは、直後、路上で草野よもぎに遭遇した。

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