第30話
モールの三階に、小規模ながらプラネタリウムがある。フードコートで慌しくハンバーガーを齧って、駆け込むように入場口に飛び込んだ。チケットは、すでに土屋が予約していた。シート席ではなく、左右と後ろに囲いがついたクッションシート。
「これ、どう見てもカップル用じゃん……」
ウォールナットの仕切り板で区切られた半畳くらいの空間に、でかい円形のビーズクッションがひとつだけ置かれている。身体を密着させない限り、どちらかが硬い床に転がらざるをえない絶妙なサイズ感だ。明らかに狙っている。
「よくこんな席、平気で予約できるよね」
「ネットだし。照れる理由がないよ」
靴を脱いだ土屋が、そっとクッションの上に腰を下ろした。
「ほら、水谷も」
「……うー……」
私はため息をつき、ちょこんとクッションの端に座った。土屋が、無言で自分の隣をポンポン叩いた。
「うー……」
「み、ず、た、に」
「分かったってば……」
もぞもぞとお尻を動かして、土屋の隣に寝転がる。肩同士がぴとりと触れ合う距離だ。横顔に視線を感じて、私はひたすら上映前のスクリーンを睨みつけることに集中する。
「あのさ、水谷」
「なに」
「手、繋いでもいい?」
なのに今更な質問が飛んできて、思惑通りに横を向いてしまう。睫毛の本数が数えられそうな距離で視線がぶつかる。
土屋は、どこか張り詰めた顔をしていた。
「なに、改まって」
「改まって聞きたくなったの。水谷は、私と手を繋ぐの、嫌じゃない?」
「…………別に、嫌じゃないけど」
「そっか」
詰めていた息を吐いて、いそいそと土屋が私の腕に腕を絡めてくる。
卑怯だと思った。あのイルカ像の前で顔を合わせたときからずっと、そう思っている。ここまできて健気さをアピールするなよ。せめて嫌な奴のままでいてくれたらいいのに。そうしたら、遠慮なく嫌ってやれるのに。
「あのさ、水谷」
「今度はなに」
「私が草野さんと別れて、改めて告白したら。私と付き合ってくれる?」
「…………プラネタリウムくらいはね」
抗議するみたいに、手を強く握られた。
「ずるい。そういう意味じゃないって、ちゃんと分かってるくせに」
「だって、間違ってるよ。他に好きな人がいるのに付き合うなんて、それは違うじゃん」
するりと口から出た言葉に、私自身が戸惑う。これじゃ、土屋と付き合うこと自体は抵抗がないみたいだ。確かにこいつは綺麗だし、ミントの良い匂いがするし、こうして隣り合っていても嫌な気持ちはしないけど。
でも、やっぱり駄目だ。
「私はそれでもいいよ。水谷の一番が、私でなくても。私と付き合ってくれるなら」
「嘘つき」
私は一方的に断じた。
誰の心にも緑の目をした怪物が住む。その名を「嫉妬」という。
だから、二番目でいいなんて嘘だ。たとえ本当であっても、それは今の順位が三番手以降だからであって、銀メダルを手にしたら金メダルが欲しくなるに決まってる。人の心はそういうふうに出来ている。
「大体あんた、よもぎと別れるつもりなんか無いでしょ」
「あ、バレた?」
ぺろりと舌を出す。蹴り飛ばしてやろうかと思った。
もう私だって理解している。この女は、けしてよもぎを手放さない。その瞬間、私がよもぎに告白することを知っているからだ。だから土屋は、よもぎと別れるより先に、私を自分に惚れさせないといけない。
水谷蓮花と両想いになり、満を持して草野よもぎを捨てる。
それが、それだけが彼女の勝利条件だ。よもぎの尊厳を一〇〇パーセント無視している。まじで人間性が終わっている。最低以下だ。百万回死ね。
けれど私だって、実はもう、このゲームに参加しているのだ。本当は降りることだって出来たのに、そうしなかった時点で同罪でしかない。
アナウンスが流れて、照明が落ちる。注意事項を伝える女性の声を聞きながら、私たちは途方に暮れたみたいに天を仰いだ。やがてこと座のベガとわし座のアルタイルの、日本で一番有名な遠距離恋愛の話が始まった。
私は目を閉じて、遠い遠い星を思う。
彼方にある恋はこんなにも美しいのに、地を這う私たちの恋ときたら。
†
フードコートでハンバーガーとポテトを食べながら、この後の予定を聞いた。
「いや、実はここまでしか考えてなかった」
「じゃ、解散で」
「つれないなぁ、みいちゃーん」
うざい。黙らせようとポテトを口の中に突っ込むと、嬉しそうに齧っていた。
「ていうか、後は雰囲気と水谷の意見で決めようと思って。カラオケとかどうかな」
「嫌。土屋、絶対えろいことするつもりでしょ」
「偏見だよ。カラオケに対する。私、行ったことないけど」
「私もよもぎとしか行ったことないや」
「よし行こう絶対行こうはい決定決まり決まり」
そうして、カラオケボックスに連れ込まれた。土屋は多分日本で一番有名なそのカラオケチェーンの会員証を持っていなくて、その場でアプリを登録していた。私はキーを上げて男性ボーカルのマイナーメジャーソングを歌い、土屋は戸惑いながら定番の合唱曲を入れて、私をひどく困惑させた。こいつまじか。
けれど、スピーカーから流れるイントロを聴いているうちに、自然と歌詞が口を衝いた。そうして結局、私も彼女と一緒に「怪獣のバラード」を歌った。小学校時代は何とも思わなかったその歌詞が、今日はなんだか妙に沁みた。
店を出ると、もう日は落ちかけていて、空は朱色に染まりつつあった。会計を終わらせた瞬間、探り合うような空気が流れる。今度こそ冗談ではなく、帰ろうか、と言っても良いタイミングだった。
でも。
「なんか、小腹空いたね」
さりげなさを装った土屋の言葉に、私は頷いてしまった。
そのあとで、ふと思った。もしやこれは、土屋の作戦だったのではないだろうか。かつての合唱曲を歌わせて、過去の友情を想起させるという。
さすがに考えすぎだろうか。でも。
土屋が、駅とは逆方向の商店街へと向けて歩き出す。私はひと時迷い、その背を追いかけた。
横殴りの夕陽を受けて、黒々とした二筋の影が長く足元に伸びていた。
山盛りのポテトとドリンクバー二つ。クソみたいなオーダーに完璧な営業スマイルを返して、アルバイトさんは手のひらでドリンクバーの在処を示してくれた。
ハンドバッグをボックス席の隅に追いやって、土屋が立ち上がる。
「何飲む?」
「じゃあ、メロンソーダ。氷抜きで」
「オーケイ」
私は頬杖をついて、一面の窓ガラスから街路を見た。藍色をした空のなか、まだらに浮かぶ鱗みたいな雲だけが燃えるように赤い。逆光になった街並みに、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めていた。
「お待たせ。これ? ジャスミンティー」
ふうん、と言って、私はメロンソーダに刺さったストローを咥えた。しゅわしゅわと炭酸が舌先で弾ける。ふと、ゲップが出たら不味いかな、と思った。いや、別にいいか。こいつに聞かれたところで、何も問題じゃない。
「土屋って、音楽とか聞かないの?」
「全然。選択肢が多すぎると、逆に選べないことってない? そういう感じ。なに聞けばいいかわかんない」
「よくそれでカラオケ行こうと思ったな……」
「水谷が煽るのが悪いよね」
「煽ってないってば。てか煽るってなに。私、土屋の何を煽ってんの」
「そりゃ、嫉妬とか性欲とか」
「ぐっ」
散々えろいキスされて、告白までされて、それに気づかないほど馬鹿じゃない。それでも、改めて言葉にされると格別だった。
「水谷だって、そうだよね。そういう目で草野さんのこと見てる」
喉の奥でパチパチと泡が割れた。私が? よもぎを? うっかり真顔になってしまう。
違う。うっかり、じゃない。真面目に考えるべき局面だ、ここは。いい加減目を逸らしていたってどうにもならない。そんな強度では、土屋の恋に押し負ける。
ぐるぐると過去を回想する。繋いだ手のひら。更衣室の着替え。ハグしたときの柔らかさ。胸の谷間に鼻を埋めたときの匂い。そのときの心臓の鼓動と、脳髄を巡る血の熱さ。
あの、強烈な衝動。
私はストローを咥えて、ぷくぷくとメロンソーダに追加の泡を浮かべた。土屋が、探るような上目遣いで私を見る。
「水谷ってこの前、草野さんの家に行ったよね」
「行ったけど」
「一応。一応、聞くけど……ヤッてないよね?」
ヒュっと息を呑んだ。否定の言葉が咄嗟に出てこない。
その僅かな空白だけで、土屋は何かを察したようだった。眦が吊り上がる。耳のピアスが、威嚇のように光を反射した。
「水谷?」
「違う、ヤッてない! それは本当。ただ、」
「ただ?」
「…………襲いそうには、なった。でも、雫が帰ってきたから」
「うわっ」
土屋が軽く身を引いた。ふざけんな。自分のことを棚に上げるにもほどがあるだろ。
抗議しようと口を開いた瞬間、土屋の口元がふっと緩んだ。目元から棘が消え、代わりに憐れみと同情が宿る。
「死にたくなった?」
「───え?」
「私はなったよ。水谷を脅して、初めてキスしたあと」
その一言で、気づいてしまった。
土屋は、私の地獄を理解している。
だって彼女は、知っているのだ。親友に絶望的な片想いをして、友情と劣情の狭間で揉みくちゃにされながら啜る、泥水みたいな恋の味を知っている。
沼底にいるのは私だけじゃなかった。この女もまた、私と同じように、地獄の底でもがいている。
土屋琥珀は私の怨敵で、恋敵で、元親友の幼馴染で、相変わらず世界で一番嫌いな女で。
そしてきっと、ただ一人の、同志だった。
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