第31話

 ポテトが空になる頃には、すっかり夜だった。母からのメッセージにこれから帰ると返事をして、ファミレスを後にした。

 海浜美浜駅の近辺は、駅を挟んだ左右でがらりとその雰囲気を変える。健全で清潔な東側と、猥雑で混沌とした西側。カラオケがあるのは西側で、居酒屋とか怪しげな店があるのもこっちだ。


「声掛けとか面倒だから」


 と言って、土屋は表通りを一本外れた。それもそうか、と思って私は逆らわなかった。

 道を一本外れただけで、通りは驚くほど静かだった。シャッターの降りた商店と、プランターに花を咲かせた家々。一人なら背後を振り返りたくない道も、手を繋いでいる今は怖くない。

 どんなに冷たい手も、握り続けていれば熱を帯びる。

 土屋のことは、疑いようもなく嫌いだ。強引で、不可解で、私に意地悪をするから。でも、カラオケで合唱曲を入れる間抜けさとか、ポテトを三本ずつまとめて食べる荒っぽさを知ってしまうと、それだけではないような気がしてくる。

 昼間の残滓と、夜の雰囲気に当てられて、私は思わず口にしてしまった。


「あの、土屋。えと、今日は、結構それなりに楽しかったよ。だから、その、」


 その後に続く言葉を口に出そうとして、ためらう。これが残酷な回答であることくらい、私にも分かっている。けれど、これが私にとっての唯一解だ。


「あのね。友達じゃ、だめ?」


 土屋は。

 土屋はそっと手を解き、感情の篭らない目で私を見つめた。

 桜色の唇がわずかに震えていた。私の記憶の中にいる幼馴染と、今、目の前にいる少女が急速に結びついていく。


「だめ。私は、水谷と、普通の友達になりたいわけじゃない」


 淡々と土屋は答えた。


「それに、今日のデートはまだ終わってないよ。まだ最後のイベントが残ってる」


 顎をしゃくって、背後にある建物を示す。それがなんであるかを理解した瞬間、カッと頬に火が灯った。紫の蛍光灯に照らされた看板には、二種類の値段が表示されている。休憩と宿泊。


「ここ、って」


「じゃ、入ろうか」


 正面口を隠す衝立を回り込もうとする、土屋の裾を掴んで引き止める。


「いやいやいや」


「どうしたの、水谷」


「なに平気な顔で入ろうとしてんの⁉︎ これラブホだよね⁉︎」


 押し殺した声で叫ぶ。路上に人気がないことだけが救いだった。


「こういうのって十八歳未満禁止なんだけど、ていうかそれ以前でしょ!」


「何言ってんの」


 鼻で笑う。


「制服着てなきゃバレないよ。それに、水谷が自分で言ったんじゃん」


「え?」


「これは浮気だって。プラネタリウム見てご飯食べてカラオケ行くのが浮気? 違うよね」


 動揺する私を見て、土屋は、凍った金属製のナイフを投げつけるみたいに告げた。


「嫌なら、一人で帰れば。そのときは、草野さん呼ぶから」


「…………あ?」


 今なんて言った、この女。


「水谷が付き合ってくれないなら、草野さん呼び出してするって言ったの」


 どくどくと心拍が高鳴っている。後頭部が熱ぼったい。これみよがしに過激な言葉のチョイスはどう考えても挑発だ。それでも、頭に昇る血を止められない。


「く、───来るわけないでしょ、こんな時間に」


「どうかな。が呼べば来るかも。あの子、尽くすタイプだから」


「それもラブホって」


 何言ってんの、と土屋が目だけで私を嘲笑う。性格の悪いお姫様みたいな嘲笑だった。


「人間関係全部ぶっ壊す覚悟でグループのリーダーにコクったり、女の子とえっちいことしたくてマッチングアプリ使う子だよ? 来るよ。私に抱かれるためなら、絶対に来る」


「それは、」


 それは、そうかもしれないけど。

 土屋の視線が、私の身体の表面をなぞるように這った。頑丈なデニムのスカートが急に心許無く感じる。せめてもの抵抗として強く睨み返すけれど、土屋はまるで怯んでくれない。

 宵闇よりも濃い滑らかな黒髪が、温い夜風に乱れた。

 土屋は静かに言った。


「どうする? どっちでもいい、とは言わない。私は、水谷がいいから」


「………………最っ低。百万回死んでよ」


「ごめんね。なんせ育ちが悪いもんで」


  †


 土屋は私を待合室みたいな半個室のスペースに置いてけぼりにして、チェックインを済ませに行った。青紫のライトが照らす胡散臭いその空間に取り残されたとき、思わず彼女の服の裾を掴んでしまいそうになった。

 心臓が馬鹿みたいにうるさく高鳴っている。全ての意識を手元のスマホに集中して、なんの興味もない芸能ニュースの記事を無心で追いかけた。頼むから誰も入って来ないでくれ、と強く願う。こんな姿、死んでも誰にも見られたくない。


「お待たせ」


「待ってない」


 土屋が私の右手首を掴んだ。奴隷みたいに手を引かれて、私はエレベータに連行される。

 さっきまで煮えたぎっていた反抗心がみるみる萎れていくのが自分でも分かる。確信がある。このまま部屋に入ったら、私は間違いなく流される。

 濁流を堰き止めようと、私は言った。


「これから行く部屋、ボドゲとかある?」


「ボドゲって、ボードゲーム?」


 私の質問に、土屋が思い切り怪訝な顔をした。


「ラブホって、そういうのあるんでしょ。女子会用に。そういうので遊ぼうよ。オセロでいいから。オセロ、楽しいよ」


 私の声は、笑えるくらいに必死だった。


「オセロやろうよ、土屋。私、土屋と遊びたい。朝まで、ずっと。嘘じゃないよ」


 土屋はぐずりだした私を一瞥して、「こいつまじで何も分かってねえな」みたいな顔をした。はー、と大きなため息を吐く。


「だから、それが煽ってるんだってば」


「わかんない。煽ってるってなに?」


「わかんなくていいよ、水谷は。あと、ここにボドゲはない。あるのはアダルトビデオしか見れないテレビと、ダブルベッドと、ガラス張りのお風呂だけ。ティーパックくらいはあるかもね」


 チーン。エレベータが静止した。ガタガタと音を立てて、重苦しいドアが開く。

 

「そんなの、そんなの、……えっちしか、することないじゃん」


「そりゃね」


「やだ。オセロしたい」


「どんだけ好きなの」


「違うよ。土屋とはオセロがいいの。別にトランプでも将棋でもいいよ。将棋のルールしらないけど」


「女子高生二人がラブホで将棋打つのは、ちょっと絵になるかもね」


「そうだよね。だから将棋しようよ。私、今からドンキで買ってくるから。売ってるよね? 千円で足りるかな?」


「でも、駄目」


 ぐっと強く手を握られた。ずっと手を握っていたからか、手のひらが熱を帯びている。指先まで血が通っているのが分かる。


「なんでよぉ。そんなに、私のおっぱい触りたいのかよ……」


「おっぱいだけなら草野さんのほうが好みだよ」


 土屋がドアの前で立ち止まった。手が離れる。

 逃げ出さない私を見て、土屋が言った。


「そんなに嫌なのに、逃げないんだ」


「だって、私が逃げたらよもぎとするんでしょ」


「多分ね」


「……それは、もっと、やだから」


 ドアノブに手をかける。いかにも防音性に優れていそうな重苦しい扉だ。一足先に暗い部屋へ入った土屋が、振り返って私を見た。

 真っ黒な髪に真っ黒な瞳。青褪めた白い肌。昼の光の下では邦画のヒロインみたいだったのに、今やどうだろう。どうみてもホラーに出てくる魔女か吸血鬼だ。さもなくば悪魔。


「そんなに、草野さんが好きなんだ」


「…………そうだよ」


 土屋の長い睫毛が、一瞬だけ廊下の蛍光灯を浴びて煌めいた。目が閉じて、開く。

 その瞳の奥に、緑色の光を幻視した。

 誰の心にも緑の目をした怪物が住む。

 ドアの隙間から飛び出した手が、私の手首をわし掴んだ。大口を開けた怪獣みたいに、扉が私を飲み込んで閉じる。


「ちょっ、いたっ───ゃあっ」


 強引に腕を引かれて、そのままダブルサイズのベッドに転がされた。起き上がろうとした肩を上から押さえつけられる。土屋の手が枕元のパネルに伸びて、何かのスイッチを操作した。光が降り注ぎ、視界が開ける。

 部屋の照明は、白でも橙でもなく、不埒な薄桃色をしていた。


「何で、そんなこと言うの」


 底冷えするような声で、私に馬乗りしている土屋が言った。指先が痛いほど強く肩に食い込む。


「ばか。死ね」


「……つちや?」


 綺麗な顔が近づいてくる。またキスされるのかと思ったら、唇は私の首筋に着地した。舌が肌を舐める。むずかゆい感覚の後に、鋭い痛みが走った。


「い、いま、噛んっ、」


「うっさい。ちょっと黙ってて」


 土屋がスカートからハンカチを取り出して、私の口に突っ込んだ。喉頭を刺激されて、食道がえづく。両手が自由なんだから本当は幾らでも抵抗できるはずなのに、ショックで身体が固まって動かない。涙で視界が潤む。

 私のTシャツを無造作にめくり上げた土屋が、眉を顰めた。


「ブラ、可愛くない」


 指先が、硬い生地と柔らかな肌の境界をなぞる。ぴくん、と背筋が震えた。もう一方の手が、みぞおちから背中へと肌を滑っていく。


「なんでこんなの選んだの。こうなるって、少しも考えなかった?」


「……っぷ、あ、当たり前でしょ!」


 ようやく口から布を吐き出して、私は土屋を睨めつける。

 どうにか抜け出そうと身体をよじるけれど、まったく動けない。完璧にマウントポジションを取られている。必死に両腕を振るっても、だだを捏ねる子供みたいなパンチを繰り出すのがせいぜいだった。


「すこしは考えてよ」


「だって、私は───んっ」


 両手で頬を固定されて、噛みつくみたいに奪われる。


「私は、なに?」


「よもぎが、」


 もう一度。今度は舌も入ってきた。嬲るように頬の内側を舐め上げる。瞼の裏でパチパチ弾ける快感を振り切るように、私は叫んだ。


「っ、私は、よもぎが、好きなの!」


 言葉にすると、すとんと何かが胸に落ちた気がした。

 そうだ。やっぱり私は、よもぎが好きだ。友情とは少し違う角度で。

 女で、友達で、好きな人がいて、その好きな人とラブホにして。

 何もかも間違っているけれど、私はよもぎが好き。世界で一番、好き。

 土屋が、悔しそうに顔を歪めた。


「ほんっと、そういうとこ……!」


 胸の間を舌がなぞる。甘い声が零れそうになって、両手で口を塞いだ。


「手、離して。声、聞きたい」


「やだ」


 もごもごと私は言った。「よもぎ以外に聞かせたくない」


 すん、と息苦しい沈黙が降りた。土屋も私を動きを止めて、互いの顔を見つめ合う。パンパンに膨らんだ風船みたいに、空気が張り詰めていく。

 口火を切ったのは、土屋のほうだった。


「よもぎよもぎって、あの子のどこがそんなにいいわけ⁉︎」


「優しいくて気が利いて可愛いくてあざとくてなんか柔らかくてシトラスっぽい匂いするとこだよ! あと顔!」


「顔なら私も負けてないけど⁉︎」


「私は可愛い系のが好きなの! あと胸! ふっかふかのやつ!」


「はあー⁉︎ この、みいちゃんの巨乳好き! 何が親友だよ! どうせ普段からそういう目で見まくってたんだ! あーあーあーやらしーなあ!」


「どの口が⁉︎ てか友達でも触りたいでしょあんなの! 冬場とか特に!」


「おっぱいなら私のでいいじゃん! これでもDあるんだからね、D!」


「よもぎはFあるし! Dじゃ物足りない!」


「このっ……!」


 土屋は、着ているワンピースの肩紐を落として、ブラウスのボタンを外した。胸元のあわいから、薄紫色をしたブラが覗く。刺繍とレースがあしらわれた、きちんとしたやつだ。学校の更衣室で見かけたら、確実に噂になるようなやつ。

 私の手の甲を握って、その隙間に突っ込む。指先に、溶けてしまいそうなほど柔らかい感触が触れた。


「私にしてよ」


 心臓の鼓動が伝わる。


「触るなら、私を触って。他の子じゃなくて、私に触れてよ、水谷」

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