第28話
「へいかーのじょ。この後、うちと一杯どう?」
よもぎが、どさりとスクールリュックを私の机に置いた。
「なにそれ」
「もちろん、デートのお誘いだよ。マック行こ」
「一杯って」
「コーラでもコンポタでもいいよ。うちが奢ってあげる」
迷いが込み上げる。少し前なら、すぐに頷いていた。今の私に、彼女の誘いを受ける資格があるだろうか。
でも。
「……話したいんでしょ。割り勘でいいよ」
「やたっ、蓮花優しいっ」
あっはっは。
そんなわけがない。
夕方に差し掛かる直前の、黄色い光の差し込む駅前のファーストフード店で、私はオレンジジュースを、よもぎはアイスティーを頼んだ。折半で購入したポテトのLサイズをトレイにぶち撒けて、交互に摘まむ。
丁寧に磨かれた彼女の爪が、衣の油に濡れてつやつやと室内灯を反射した。
「日曜日、デートに誘ったんだけどね」
ぎくりとした。心臓を鷲掴みされた気分になる。
「土屋さんね」
「あ、うん」
「そうなの。でも、振られてしまった」
はああぁぁ、と頬杖をつく。
振らせたのは私だ。罪の対価がこのひとときだとすれば、罰はどのくらいの重さだろう。できれば、これ以上の地獄は勘弁してほしかった。
「土屋のどこがそんなにいいんだか」
「んー、顔?」
「いやまあ、顔はね……」
良いとは思うけど。
ただまあ、ここで「よもぎのほうが可愛いよ」と、素直に言える私なら良かったのに。そう思う。
ストローを咥えたよもぎが、唐突にくふくふ笑った。
「……何?」
「蓮花は、やっぱりいい人だなあって」
「なにが」
「変わらないところ」
よもぎの手が、私の手を掴んだ。指と指の間に、自分のものではない体温が割り込む。手の甲で油がべとついた。彼女の指先が、私の手のひらを、握ったり、開いたりする。
「ほら、嫌がらない」
「別に、友達なら普通でしょ」
嘘。嘘だ。心臓がうるさくて仕方がない。
「んー、どうかな。やっぱり、距離は置かれるよ。花園さんみたいな反応が、普通だと思う」
「……そっか」
「だから、蓮花はいい人」
何もかもが間違っている。
私がよもぎを避けようとしないのは、ぴたりと繋がれた手のひらに嫌悪のかけらさえ滲ませないのは、単に私が彼女を好きだからだ。
変わらない友情とか、同性愛者への正しい理解とか、偏見のない人間性とか、そういう立派で美しいもののためじゃない。単に私がよもぎに触りたいから、この手を振り解かないだけだ。
そしてもちろん今の私は「いい人」ではない。
ずっと疎ましく思っていたその称号が、ひどく恋しかった。
「別に、そんな立派なもんじゃないよ。よもぎだから、ってだけ」
「あはは、口説かれちゃいそう」
ぐー、ぱー。
「浮気者」
「んふふ、蓮花ならそれもアリかな」
アリなわけあるか、馬鹿。
もちろん───これも、間違い。
†
カウントダウンがすり減るように、週末がやってくる。約束は日曜だ。その前日、私は何をするでもなくリビングのソファに寝転がっていた。
手にしたスマホを持ち上げる。開いているのは、よもぎとのトーク画面だ。最後のやり取りは、古典の授業に対するささやかな愚痴だった。他愛ないやり取りが、沁みるように暖かい。
何もかもぶち撒けるかどうか、悩まなかったと言えば嘘になる。
でも、その先にあるものはなんだろう。
きっと私は、草野よもぎを永久に喪う。恋人どころか、友人で居続けることさえ叶うまい。
それが一番誠実で、一番最低な結末だった。よもぎに対して真摯であろうとすればするほど泥沼だ。詰んでいる。
あるいは、土屋を選んでしまおうか。
悪い奴、では、あるのだけれど。私に対する好意は本物で。
顔が良くて、頭が良くて、ミントの良い香りがして。いやそれはどうでもいいけど。
幼馴染の、はーちゃん。
彼女が、土屋琥珀が、あの「はーちゃん」だということが、私の中でまだ上手く結びつかない。
面影は確かにあるのに、それでも八年という時間は、余りにも途方がなかった。
「……はー、ちゃん」
あれだけ呼んでいた甘やかな名前さえ、今はもう、乾いている。
「土屋が、はーちゃん……」
それ以前に、人格変わり過ぎという気もするが。昔は私の後を着いてくるばかりだったのに、今は───今は、その。
無意識に触れていた唇から、手を離す。
綺麗で、清潔感があって、ミントの匂いがして、あとまあ綺麗で、唇から伝わってくるくらいに、呆れるくらいに私のことが好きで、だから本当はそこまで嫌じゃなかった。けど。でも、私は。
「ばかみたい」
目を閉じる。
心が思うように動けばいいのに。そう思った。
†
そして永い夜が明けた。私は0時過ぎまで散々迷った後、友達と出かける日のようなコーデを選択した。
十分早く着いた待ち合わせ場所には、もう土屋がいた。駅のシンボルとなっている真鍮製のイルカ像の下で、つんと顔を上げて柱時計を見つめている。
立ち姿が目に飛び込んできた瞬間、思わず息を呑んだ。私服だ。いや当たり前なんだけど。
透け感のあるブラウスにワンピースを合わせた彼女の姿は、青春映画から抜け出したヒロインみたいだった。声を掛けることを躊躇うくらい、絵になっている。
「───水谷!」
綺麗な顔が、私を見つけて、ぱっと華やいだ。
なんだその反応。
「来てくれないかと思った」
「いやいや、来るでしょ……」
約束したんだから、と言いかけて、言葉を飲み込む。私に約束を語る資格はない。
「そういう、取引、なんだから」
土屋が、拗ねた子供みたく唇を尖らせた。
「それだけ?」
「当たり前でしょ」
「八年ぶりに幼馴染のはーちゃんとお出かけ! 楽しみ! とか、そういうのは?」
「あるか、ばか」
土屋の肩を手で押し退ける。手首で、ずっと結びっぱなしのミサンガが揺れた。いつの間にか大分くたびれたそれを見咎めて、土屋の声が、一オクターブ以上低くなる。
「それ、草野さんも着けてたよね」
「……いいでしょ。文化祭で買った、おそろいのやつ」
我ながら、この「いいでしょ」がどこに向けたマウントなのかよく分からない。私は土屋に、どういう感情を持って欲しいのだろう。
けれどとにかく、彼女の心のどこかに引っ掛かりはしたらしい。
「へえ?」
仮面みたいな笑顔の土屋に、右手をぱしりと掴まれた。そのまま、間接のあたりをぎゅうぎゅうに握りしめてくる。
「あのさ水谷。もしかして、私のこと煽ってる? わざわざ付けてきたっていうのは、そういうこと?」
「なんの話⁉︎」
「言っておくけど、私、煽り耐性とか皆無だから。ていうか、この半年で忍耐力が擦り切れてるから。言ってる意味、分かる?」
「全然分かんないんだけど!」
「そっか。じゃあ、分からせてあげようか?」
目が猫科の肉食獣だ。怖い。
「え、遠慮しとく……」
「残念」
身をよじると、あっさりと土屋は私を解放した。くるりと背中を向ける。膝丈のスカートが、空気を含んではらりと翻った。白いふくらはぎが覗く。
「じゃあ、そろそろ行こうか。デート」
「……浮気だけどね」
私が吐き捨てた言葉に、土屋の足が止まった。肩越しに振り返った顔には、淡い陰翳が落ちている。
意外にも、泥に沈んだような声で彼女は応えた。
「そうだね。草野さんには、悪いと思ってる」
「だったら、」
言葉に詰まる。
だったら、なんだ。私ではなく、よもぎとデートに行ってこいと背中でも押すつもりか。
それを止めたのは自分のくせに。
左手を掴まれた。私も、手を引く力に抗わない。所詮、私たちは共犯者だ。土屋が誘い、私が乗った。そこに罪の軽重なんてありはしない。等しく重い。
今度は前を向いたまま、土屋が言った。
「心が」
「え?」
「心が、思うように動けば良いのにね」
こいつも、そんなことを考えるんだ。
結んだ手の体温が混ざり合う。あの文化祭で、土屋が、よもぎよりも先に私に声を掛けてくれていたら。
益体もないことを考えながら、私たちは歩き出す。
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