第27話
ガタンと椅子の鳴る音がした。古びた木の座面に、革靴の底が叩きつけられている。
片足を蹴り下ろした土屋が、冷たい目で私を見下ろした。
「───あのさ水谷。私の気持ち、わかる?」
地獄の底から噴き上がるような声だった。
「一年目の文化祭で水谷を見つけて、運命だと思った。舞台の上の水谷、かっこよかったよ。もちろん一目で分かったよ。当たり前だよね? 親友だもん。あのさ、私がどんな気持ちだったと思う? 芝居が終わるまで、どうやって話しかけようか悩みに悩んで、それでも決心がつかなくて、それなのに横から出てきた草野さんと一緒に行っちゃった水谷を見たとき、どんな気持ちだったと思う? 廊下ですれ違って完全にスルーされたとき、どう思ったと思う? 次の日からどんどん草野さんと仲良くなっていく水谷を見て、どんな気分だったと思う? その挙句、水谷はあっさり草野さんに惚れたよね? 自覚なかったかもだけど、はたから見てたら一発だったよ。あのさ、それを見てた私は、どういう気持ちだったと思う?」
土屋が吐き捨てた。
「───私のほうが、ずっと前から好きだったのに。どうして水谷は、他の人を好きになってるの」
どうして、って。
そんなの。
土屋の手が私の左手首を掴んだ。強い力で、引き寄せられる。呆然としている私は、それに抗えない。
立ち上がり、正面から幼馴染の顔を見る。それと知ってしまえば、彼女は間違いなく、萩本琥珀と同じ顔立ちをしていた。
握り拳が、私の胸の上を叩く。鎖骨が痛んだ。最後の一滴を絞り切るように、土屋が言った。
「一生忘れないって、言ったくせに」
言った。確かに言った。
言った、けど。
それは八歳の私の言葉だ。十六歳の私に、その責任を問われたって困る。
「はーちゃん」との友情は、とっくに私の中では色褪せて、散ってしまった桜の花だ。
私の、水谷蓮花の中では。
じゃあ、土屋琥珀の中では?
「私、頑張ったんだよ。水谷、成績良かったから。私も優等生になれば、そうすれば同じ大学に入れるかも、って、思って。石に齧りつくみたいに、たくさん勉強したんだよ。頑張ったの。頑張ったんだから……」
小さな拳が、ぽすぽすと私を打ち据える。虫も殺せないような力で叩かれているのに、ひどく痛い。
「その───土屋が、私に意地悪だったのって」
「超ムカついたから」
ド直球のストレートが私の鳩尾に突き刺さった。
「全然私のこと思い出さないし、他の女のこと好きになるし、そのくせちゃんと可愛くなっていやこれは関係ないけど、とにかく全然私のこと思い出さないし」
「それは、その、ごめんだけど───いやでも!」
ちょっと待った。何かがおかしい。いや何かっていうか。
「そこまで私が好きなら、何でよもぎの告白オーケーしたの⁉︎ 断りなよ!」
「水谷と同じ理由だよ」
「え?」
「だから、草野さんを水谷から引き離すために、草野さんと付き合うことにしたの」
はあ⁉︎
「なん、なんっで、そんな面倒な、」
「仕方ないじゃん」
土屋が横を向いた。その耳が、ほのかに色づいている。
「私に振られた後、水谷から告白されたら、草野さんは断らないと思ったから。それに水谷は、草野さんみたいな子が好みなんだよね。私、あの子みたいに可愛い系じゃないし。性格悪いし。捻くれてるし。だから、搦手だってなんだって使うよ。それに、このことは草野さんも納得済みだし」
確かに、よもぎは知っていた。土屋に別の本命がいることを。その相手と、二股しようとしていることも。それを理解した上で、よもぎは土屋と付き合っている。
一方で土屋は、よもぎと付き合うことで、私をよもぎから遠ざけようとした。そして、私がよもぎに向けている感情を盾にして、私へと迫っている。
頭がくらくらしそうだ。かつて私が思い描いていた恋愛と、同じジャンルの物語とは思えないほど歪んでいる。
「それで、水谷」
「な、なに」
「返事は?」
私の口がぽかんと空いた。
「返事って、なんの?」
「はあ?」
殺意の篭った視線が飛んでくる。怖い。
「今、言ったじゃん。私は、水谷が好きなの!」
両手の拳を硬く握って、叫ぶように土屋が宣言する。上気した頬が、彼女の言葉がどうしようもなく真実だと告げていた。
「好きなの。好きなんだよ。恋愛対象として。八年前から。知ってる? 八年って大体三〇〇〇日だよ。三〇〇〇日間、ずっと馬鹿みたいに好きだった」
真っ直ぐな目が心臓を貫く。土屋琥珀は、今、一欠片の嘘もなく真剣だった。
「それで、返事は?」
「そんなの、」
「ちなみに振られた場合、私は全力で草野さんを落としてめちゃくちゃにするから」
「はあ⁉︎」
「当たり前じゃん。せめてそれくらいしないと、気が収まらない。それに草野さん、可愛いし。色々あざといけど、まあそこも込みで」
愛を疑いたくなるようなことを、平然と言う。
「だから、水谷。二つに一つだよ。諦めて私と付き合うか。私を振って、私と草野さんが付き合うことを認めるか」
「ちょ、ちょっと待ってよ……!」
なにその二択。
というか、私は好かれて告白されている側なのに、どうしてこんなに追い詰められているのだろう。
「てか、あんたはそれでいいの⁉︎ 私がよもぎを好きだって知ってるんでしょ⁉︎」
「良いわけあるか馬鹿! でも、それはもう仕方ないし。付き合ってくれたら、夢中にさせる自信はあるから」
「なんなのその自信……」
怖いんだけど、という言葉を飲み込む。不意打ちで、ブレザーの上からきつく抱きしめられた。肩口に埋まった鼻先から、温かな息が染み込んでくる。
「好きだよ、水谷」
「……っ、私は、」
「意地悪してごめんなさい。冷たくしてごめんなさい。でも、本当に怒ってたんだからね、私」
「それは、だからごめんって……んっ」
啄むような四度目のキス。繋がった唇から、ふう、と息が吹き込まれた。懐かしいペパーミントの香りが、口内を満たしていく。
「っ、ここ公園っ」
「駄目なのは外だから? それとも、あの子が好きだから?」
「馬鹿じゃないの。そんなの、決まって───」
再び、唇を奪われた。
上唇の前歯の間に舌が入って、ぬるりと舐めていく。頬の内側を撫で、下唇を食む。頭の中が、土屋琥珀で一杯にされていく。
長い時間をかけて私の中を堪能した後、ようやく彼女は唇を離した。
私の肩に額を突いて、呟く。
「やっぱいい、聞きたくない」
自分が質問したくせに!
私はぎこちなく身を捩って、土屋の腕の中から抜け出した。上顎を舐められた辺りから、腰の後ろの辺りに痺れのような感覚があって、足に力が入らない。深く考えると死にたくなる気がした。
「これ、見て」
土屋が、スカートのポケットからスマホを取り出した。指紋認証でロックが解除されて、メッセージアプリが表示される。
そこに、トーク画面が表示されていた。相手の登録名は、「草野よもぎ」。他愛ないやり取りの最後に目が止まる。既読になったメッセージには、こう記されている。
『日曜日、お出かけしたいな。琥珀ちゃん、空いてる?』
「選んでよ、水谷。私と草野さんがデートに行くか。水谷が私とデートに行くか。どっちがいい?」
悪魔みたいな二択だ。
どう考えても正しい答えは決まっていた。今までとは訳が違う。私はもう、土屋の気持ちが私に向いていることを知っている。
だからこれは、完全無欠に、一文字分の行間もなく、浮気の誘いだ。よもぎとの友情を、裏切る行為に他ならない。
認めてしまえばいい。土屋とよもぎの交際を。そしてこの恋心に蓋をして、よもぎを祝福すれば良い。
そう考えた瞬間、心臓がずくんと痛んだ。あのクリスマスの残像が、LEDライトに照らされた横顔が、私にそれを許さない。
誰の心にも緑の目をした怪物が住む。その名を「嫉妬」という。
そして。
「みずたに」
土屋と目が合った。
悪魔のようだった彼女は、今、泣き出す寸前の子供みたいな顔をしていた。私を選んで欲しいと、どんな言葉よりも雄弁にその表情が告げていた。
藤の花が春風に揺れて散る。感情が渦巻いて、私の心をぐしゃぐしゃに轢き潰す。友愛、独占欲、恋心、郷愁、同情、そして───嫉妬。
私にはもう、正解が分からない。正しい答えを選べない。
この選択肢にラベルが付いていたらいいのに。そう思った。
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