第26話
私は琥珀の手を引いて、駅の東側にある市営図書館へ向かった。古めかしい図書館の二階には児童用の学習スペースがあって、そこは少しくらい声を出しても問題ないことになっている。
分厚い木の机に算数のドリルを広げて、私はすぐ気がついた。萩本琥珀は頭が悪い。すぐに計算を間違えるし、去年習ったはずの九九をきちんと暗唱できない。
私は早々に見切りをつけて、国語のドリルを進めるよう指示した。漢字の書き取りなら、馬鹿でもできる。
HBの鉛筆でガタガタと漢字を書き写しながら、彼女はちらちら私の顔色を伺っていた。
気詰まりな沈黙の中、偶々ポケットに入れた指先が、小さくて固いものに触れる。
先生がくれた飴玉だった。
「飴」
「えっ」
「飴、あげる。先生に貰ったから」
わざとぶっきら棒に告げて、飴玉を取り出す。透明なビニルで包装されたそれは、それぞれピンク色と白色をしていた。
イチゴ味と薄荷味だ、と思った。
「はい」
「くれるの?」
「うん」
私は迷わず、白いほうを琥珀に押し付けた。御多分に漏れず、私もこの味が苦手だった。清涼な香りはともかく、すっとする独特の感じがダメだ。
琥珀はおそるおそる袋を切り、真っ赤な舌先に半透明な飴玉を載せた。もぐもぐと口を動かしてから、丸い目をして呟く。
「なんか、これ、すーすーする……」
「ミント味だから」
「お、おいしいね」
「あっそ。私は、その味キライ」
口の中で溶ける飴を、奥歯で蹴り付ける。がり、と音がして、飴玉が大きく欠けた。尖ったナイフみたいな欠片を舌で舐める。
「でも、あんたには丁度いいかもね」
私は目線を外して、吐き捨てるように言った。
「ミントとかハッカって、嫌な匂いを消してくれるから」
「……わたし、やっぱり、臭いの?」
琥珀が、特に悲しむ様子もなく、首を傾げた。本当に、疑問に思っているらしい。自分では、分からないものなのだろうか。
「正直、臭うよ。髪とか、服とか。お風呂、ちゃんと入ってる?」
「入ってるよ。毎日じゃないけど」
「毎日入りなよ」
琥珀は悲しげに俯いて、「むりかも」と呟いた。
そんなことがあるのか、と思った。私は、どれだけ面倒でもお風呂に入らないと叱られる。
「ならもう、ずっとハッカ味の飴でも舐めてれば。私も、味は嫌いだけど、匂いは割と好きだし」
「うち、飴とか無い、から」
「……あー、そーですか」
私は面倒になって、口の中に残った飴玉を噛み砕いた。甘ったるいイチゴのフレーバーが口一杯に広がって、するりと鼻から抜けていく。
飴玉ひとつにしては、それなりに会話ができたほうじゃないだろうか。全く明るい感じにはならなかったけれど。
私が自らの宿題に手を伸ばしたとき、ぽつりと琥珀が呟いた。
「みずたにさん、いいひとだね」
「それ、やめて」
「えっ?」
「いいひとって言われるの、キライ」
「どうして?」
私は下唇を甘く噛んだ。
水谷さんは、いい子だね。
蓮花は、いいお姉ちゃんね。
そう言われるたび、その後には不快な出来事が続いた。「いい子」は、誰かが私に割りを食わせるときの前置詞だ。それなのに、私はその言葉を裏切れない。
母から、妹にお菓子を譲るよう言われたときも。
先生から、プリントの回収を頼まれたときも。
友達から、宿題を写させて欲しいと言われたときも。
全部嫌だったのに、私は断れなかった。
いい子じゃない自分になることが怖かった。いい子でいれば、誰からも責められない。正しくない道を選ぶのは、怖い。だれかに叱られるのは恐ろしいことだ。
感情のままに間違った道を選ぶくらいなら、自分の心を押し込めてしまったほうがいい。
「みずたにさんは、いいひとだよ」
俯いたまま、琥珀が言った。
「わたしのこと、からかわなかった、し。一度、かばって、くれたし。嬉しいって、思った」
カリカリと黒鉛を紙に擦り付けながら、途切れ途切れに。
「バケツのとき、とか」
ああ。
バケツの水でブスの髪を洗ってやろうぜ。とかなんとか、そんなことを言い出した馬鹿な男子がいた。余りにも馬鹿だったので、先生に言いつけた。それだけだ。ただ、大人の覚えが良い私の告げ口は、それなりに効果的だった。
「今だって、勉強、教えてくれてるし」
「勘違いしないでよ。別にこんなの、わたしがいい子だからじゃない。先生に言われたから、教えてるだけ」
言ってしまってから、しまったと後悔する。言うべきではないことを言ってしまった。
一瞬、捨てられた子猫みたいな顔になった琥珀は、すぐにへらへらと卑屈に微笑った。
「あ、うん。そうだよね、ごめんね……」
表情を取り繕いながら、服の裾で手汗を擦っている。おどおどと、左右にブレる目が正直だった。
「ごめん、わたしなんか、が」
「いい。そういうの、うざい」
びくつくように、琥珀の肩がすくんだ。違う。怖がらせたいわけじゃなくて。私は、ただ。
深くため息をついて、私は、琥珀の背中を手のひらで叩いた。
「背筋、伸ばす!」
「えっ、は、えっ」
「あんた、俯きすぎ。ちゃんと背筋伸ばして、あと前髪も切りなよ。こうすれば幾らか、」
指先で、野暮ったい前髪を左右に払う。
その瞬間、ぴくりと指先が止まった。
琥珀が首を傾げる。
「───みずたに、さん?」
私は。
私は、露わになった彼女の双眸に、思わず見惚れていた。彼女は、吸い込まれそうに深くて無垢な、美しい瞳をしていた。黒々と艶めく睫毛が、その両目を飾り立てていた。
前髪が、私の指先から滑り落ちる。途端に、琥珀はいつもの冴えないいじめられっ子に戻った。
私は、口に溜まった唾を飲み込んで、言った。
「あ。えと、だから。髪型とか、姿勢とか、ちゃんとしなきゃ、駄目なの。お顔も身体も、私たちの一部なんだから」
「…………うん」
ぽやん、と惚けたような目で琥珀が頷く。その、何もかも差し出すような表情に、心がくらりと揺らぐ音がした。
皆の知っている萩本琥珀は、みすぼらしくて、陰気で、見るからに友達になりたくない女の子で。
でも。
本当はとても綺麗な目をしていることを、きっと、クラスで私だけが知っている。
そう思うと、何故だか、ぞくぞくと背筋が震えた。
「私、そろそろ帰る」
そう告げた瞬間、さっと琥珀の表情に影が差した。うん、と頷く声に湿り気がある。
私はなるべくさりげない口調で、肝心なことを付け加えた。
「明日は二時に集合ね」
「……えっ?」
「あんた一人じゃ無理でしょ。だから、全部終わるまで手伝ってあげるって言ってんの」
弱冷房に抑えられた室温のせいか、頬が熱い気がした。そっぽを向いて付け加える。
「別に、いやならいいけど?」
「い、嫌じゃないよ!」
野暮ったい前髪の奥で、大きな黒い瞳が輝いた。こくこくと、大袈裟に首が上下する。子犬みたいな仕草に、思わず唇が綻んだ。
私は少しだけ笑った。琥珀は、笑いだした私を見て、きょとんとしていた。
こうして私は、萩本琥珀の友だちになった。
琥珀が、私の何をそんなに気に入ったのかは分からない。きっと、刷り込みのようなもので、本当は誰でもよかったのだろう。
最初に彼女は話し掛けたのが、私だったから。
たったそれだけのことで、彼女は私に運命を感じていたようだった。私の言うことは何でも聞いたし、怖くなるくらい従順だった。前髪を切れと言えば切って来たし、背筋を伸ばせと言えば伸ばした。
宿題を全て終えた日に、どこか物寂しげな彼女を誘って、私の家で一緒にケーキを食べたりも、した。
二学期が始まって間も無く、母親の再婚が決まり、彼女は学区の異なる養父の家で暮らすことになった。
私たちは誰もいない放課後の保健室で、二人きりのお別れ会をした。
手書きの手紙を交換するとき、琥珀が言った。
「わたしのこと、忘れないでね」
それが当たり前のことであるかのように、私は答えた。
「うん、忘れないよ。一生」
「約束だよ。わたし、みいちゃんのことが好き。ずっと、ずっと好きだよ」
琥珀の目尻に透明な涙が浮かぶ。つられて、私の目尻にも熱いものが込み上げて来た。衝動に任せて、私は彼女の、華奢で薄っぺらい身体を抱きしめた。擦り付けあった頬から、ミントの匂いがした。
「うん、約束」
私たちは子供らしい無邪気さで盛大に泣き、別れた。
そして八年の月日が流れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます