第25話
あの頃、私はいつも、首筋まで海水に浸かっているような気分で日々をやり過ごしていた。ひとつ油断をすれば窒息する。油断していなくても、誰かが足を引けば同じこと。
そういう場所だった。八歳の私にとって、学校というものは。
そこへやってきた萩本琥珀は、最初から異分子だった。五月の半ばという、いかにも訳ありな時期に転校してきた彼女は、拙い手つきで自分の名前を板書し、おどおどと言った。
「はぎもと、こはくです。できれば名前で呼んでください。まだ、新たしい名字に慣れてなくて」
途端に教室が騒つき、先生がわざとらしく咳払いをした。
私は呆れていた。どう考えても最悪の自己紹介だ。もし過去に戻れたなら、そこに触れるのだけは止めておけと忠告したい。
出だしで派手にすっ転んだうえ、萩本琥珀には、およそ魅力と呼べるものが一切無かった。ごわついたおかっぱ頭に、襟首が黄ばんだTシャツ。話しかけても、「うん」とか「ああ」しか言わない。YouTubeどころかテレビも見ていない。勉強もスポーツも駄目で、その挙句に、近づくと仄かにすえた異臭がする。
あいつの家、風呂が無いんだよ。誰かが口にした言葉が、最後の引き金になった。生理的な嫌悪に対して、子供たちは驚くほど残酷だ。潰れたカマキリの死体を上履きに仕込んだり、バケツの水を頭からぶち撒けようとするくらいには。
ほどなくして、彼女は学校に来なくなった。先生たちがどういう対処を取っていたのか、あるいは取っていなかったのかは、私には分からない。
私は彼女に対して何もしなかった。もちろん、これは責められるべきことだ。
ところで、当時の私は学級委員だった。それも、かなり真面目な。
「萩本さんに、夏休みの宿題を届けて欲しいの。お願いしてもいいかしら」
そう先生に頼まれて、私が断れるはずも無かった。
職員室で、紙袋を受け取った。束になったプリントと、算数と国語のドリル、日記と自由研究の課題が詰め込まれていた。締め切った窓の外で蝉が鳴いていた。誰だってクーラーの効いた部屋から一歩も出たくない、七月の、夏休み前の最後の登校日だった。
紙袋と一緒に、肩の荷まで下ろしたような顔をしている先生が、取ってつけたように言った。
「もし、困っているようだったら助けてあげて」
なんでそこまでしなくちゃいけないんですか。
思い浮かべた言葉を飲み込んで、頷く。口答えをして反感を買いたくはなかった。反抗は間違っていて、従順が正解だと思っていた。
先生は薄く微笑み、個包装された飴玉を二つ、私に握らせた。
防犯機能付きのスマホを持っていた私は、アプリの矢印に従って彼女の家へ向かった。辿り着いた先は古びた公営団地の二階だった。
おっかなびっくり、チャイムを鳴らした。
ややあって、ドアの隙間から顔を覗かせたのは、琥珀本人だった。彼女は薄っぺらいキャミソールワンピースを着ていて、部屋の中に大人の気配は無かった。ただ、月曜日の朝、可燃ゴミの収集場所から漂う据えた臭いがした。
お風呂がないというのは本当かもしれない、と思った。
彼女は無言で私の差し出した紙袋を受け取り、口の中でもごもごと、おそらくは「ありがとう」と言った。実際に聞こえたのは、「ぁぃ、とぅ」みたいな音の連なりだったけれど。
紙袋を受け取った彼女が固まって動かないので、私は仕方なく、それらしいことを尋ねた。
「学校、こないの?」
「むり」
そうか、無理なのか。
そりゃそうだろう。そう思った。私でさえ、嫌になることはある。それ以上、何かを言えるほど、私は幼くも大人でもなかった。
「それ、夏休みの宿題だから」
「え?」
「ちゃんとやったほうがいいよ」
彼女は藁半紙の束を取り出して、ぱらぱらとめくった。
かけ算わり算。ひっ算の穴埋め。漢字の書き取り。地図記号の読み方。
ほう、と息を吐いて、彼女はとても悲しそうな顔をした。
「むり。わたし、勉強できないから。ひとりじゃ解けない」
ちっちゃな親指を中心にして、プリントに皺が出来ていた。親に教えてもらえば、という言葉を、私はぎりぎりで呑み込む。今、ここに彼女が独りでいる事実が、その提案の無意味さを告げていた。
じくりと胸が疼く。私は、私がそれなりに恵まれていることを初めて知った。
長い団地の廊下を確認して、そのどこにも人影がいないことを確かめる。困っているようなら助けてあげて。罪悪感と打算が、コントローラみたいに私の手を動かした。
私は彼女の手首を掴み、やはりもごもごと言った。
「じゃあ、わたしがおしえてあげる」
ゆっくりと、琥珀の顔が持ち上がる。重たくて長い前髪の合間から、意外なくらい大きな瞳が覗いた。彼女は目を見張っていた。おそらくは驚愕に。
腕を引くと、あっさり彼女はドアから出てきた。おいおい、私が悪い人だったらどうするんだ。立場を棚上げして、そんなことを思う。
「……なんで?」
「なんでって、」
先生に言われたから。と言いかけて、やめた。それが彼女の自尊心をひどく傷つけることぐらい、当時の私でも理解できた。
何かもっともらしい根拠が必要な気がして、私は理由をでっち上げる。
「が、学級委員だから」
彼女は不思議そうに私の顔を見詰めた。理由になっていなかっただろうか。私は何故かいたたまれないような気分になって、ぼそぼそと付け加えた。
「学級委員は、そういう役まわりなんだよ。だから、勉強、おしえてあげる」
琥珀は、ロボットみたく不器用に頷いた。油の浮いた髪が貼りついた頬に、さあっと赤みが差していく。
じわじわと蝉時雨の降りしきる夏の日で、彼女はくたびれたキャミソールワンピースを着ていて。
剥き出しの鎖骨に浮いた汗が、太陽を反射して白く輝いていた。
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