土屋琥珀について

第24話

 親水公園の藤棚は、今、まさに見頃を迎えていた。

 紫に色づいた小ぶりな花が幾つも連なり、滝のように降り注ぐ。その真下に据えられたベンチに腰掛けて、私は花曇りの空を見上げた。


「全然、わっかんない……」


 もう、三〇分はこうして考えている。

 土屋と、私の接点について。

 人が人を好きになることに理由なんてない。そういうことを、しばしば耳にする。一理あるかもしれないけれど、それでも何の切っ掛けもないなんてこと、あり得るだろうか。見た目? 一目ぼれとか? そんなもの、あり得るのだろうか。そもそも、私の見た目はそこまで好みじゃないとか言ってなかったか。

 入学時から遡ってみても、恋が芽生えるような心当たりはどこにも無かった。


「本当に、分からない?」


 ベンチの逆端に腰掛けた土屋が、静かに言った。


「全然、さっぱり、これっぽっちも」


「薄情だね、水谷」


「去年はクラスも違ったし。部活も委員会も違うし。私があんたに好かれる理由なんて、無いでしょ」


 はぁ、とこれみよがしにため息を吐く。こちらに向ける視線は、出来の悪い妹を諭す姉のようだ。その上からの態度に、ますます私は分からなくなる。


「ていうかあんた、本当に私のこと、その、好きなわけ……?」


「ん」


「この前、同じ質問したとき、自意識過剰とか言ってなかった?」


「乙女心ってやつ」


 嘘つけ誰が乙女だ。

 よもぎの告白の後、私は土屋を親水公園に呼び出した。そして、よもぎに告げられた内容を確認した。

 土屋は、その全てを肯定した。全てを、だ。

 よもぎの他に、好きな相手がいることも。よもぎと付き合いながら、その本命とだけは浮気をしていることも、全て。本命とはつまり私なのだけど。

 それでもまだ私は信じられない。


「どうせまた、からかってんでしょ」


「好きじゃない相手に、タダであんなことしないよ」


 そう言って、自らの唇をなぞる。赤みの強いグロスが、怜悧な横顔に映えていた。

 片膝を抱えて、革靴の踵をベンチの座面に引っ掛ける。土屋が、そんな私を横目で見て言った。


「パンツ見えるよ、それ」


「っ、ご忠告、どうも!」


 体勢はそのままに、スカートの裾を直す。膝小僧に熱い頬を載せて、正面を見た。低木の茂る公園を横切るように、人工の小川が走っている。小石で舗装された水路を流れる水は澄み切っていて、泳げそうなくらいに透明だった。


「じゃあ、なんであんなこと言ったの」


「あんなことって?」


「いや、だから。嫌いになって、とか。あと、無理矢理キス……してきたり、とか。胸触ったりとか。好きなら好きって、普通に言えばいいでしょ」


「それ、水谷が言う?」


 吊り目気味の目から放たれた視線が、私を切り裂く。手痛い反撃だった。好きな相手に好きだと告げるほど、難しいことはない。それを一番よく知っているのは、他ならぬ私自身だ。


「水谷だって、草野さんに何も言えてないよね」


「それは……仕方ないでしょ。よもぎは、あんたとつ、付き合ってるんだから……」


「その前から好きだったくせに」


 一刀両断にされた私は、返す言葉もなく押し黙る。そんなにあからさまだったのだろうか。それとも、それだけ土屋が私のことを観察していたのか。

 土屋が立ち上がり、私の前に立ちふさがった。逆光になった彼女の輪郭を、午後の黄色い陽射しが照らし出す。


「もう一度、改めて質問するよ。私が、いつから水谷を好きだったと思う?」


「だから、心当たり無いんだってば。去年の冬とか?」


「はずれ。もっと前だよ」


「じゃあ、夏ぐらい?」


「はずれ」


「なに、入学したときから? 本当に一目惚れってこと?」


「全然違う」


 はぁぁ、と厭味ったらしくため息を吐き出して、土屋は正解を告げた。


「八年前だよ」


「………………はい?」


「八年前の葛西第二小学校の三年二組。出席番号十八番の女の子、覚えてる?」


「いや、そんな前のこと、」


「いいから思い出して。そうじゃないとキスするから。息が止まりそうなくらい濃いやつ」


「どういう脅迫⁉」


 理不尽すぎる。それでも私は必死で記憶を手繰った。三年生のとき? 出席番号十八番。三年生の時にあった、特筆するようなこと。女の子。

 細い糸の端に、引っ掛かる思い出があった。

 ぼさぼさの髪で、すえた牛乳みたいな異臭を撒き散らしていた女の子。家庭に問題があって、クラスで孤立していた。一度だけ私の家に来て、一緒にケーキを食べた。そして、秋が深まる頃に転校してしまった、ひと夏だけの友達。

 彼女の名前は───萩本。

 はぎもと、こはく。

 忘れていた面影が、現実に重なる。ネタを明かされた後の隠し絵みたいに、一度それと気づいてしまえば、そうとしか思えなかった。

 私は呆然としたまま、かつての親友のあだ名を呼ぶ。


「はー、ちゃん?」


「やっと思い出したんだ。みいちゃん」


 幼馴染が、なびく髪を手で払う。

 逆光に秘されたその表情は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

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