第23話

 ホームルームの終了直後、よもぎの椅子がガタンと大きな音を立てた。スマホを胸に抱えた彼女が、振り返って私を見ている。零れそうなくらいに、まん丸な目を見開いて。

 その後の授業も、よもぎは気が気じゃない様子だった。ちらちらと視線が飛んでくる。英文法の授業に至っては、あまりに見当違いの解答をして、先生の失笑を買っていた。

 そして、昼休み。

 彼女は、真っ直ぐに私の席へとやってきた。


「…………行こ」


 思いつめたような顔で、私のブレザーを摘まむ。ぽってりとした唇が、きゅっと横一文字に引き結ばれている。私は頷いて、弁当を手に席を立った。何にせよ、ここは人目があり過ぎる。


  †


 よもぎが、後ろ手に部屋の鍵を掛けた。分厚い遮光カーテンによって閉ざされた理科実験室は、昼間でも仄暗い。私は、黒塗りされた分厚い実験用テーブルのひとつに、弁当箱をそっと置いた。


「はー……」


 振り返ると、よもぎが膝を抱えて床に座り込んでいた。


「よもぎ、」


「さいあく。ほんっとさいあく。まさか蓮花にまで、アカバレするなんて」


「───これ、本当によもぎなんだ」


 俯いたままの頭が、かすかに上下した。鼻を啜るかすかな音が、二人きりの実験室に響く。

 固い唾を飲み込んで、尋ねた。


「なんで、こんなことしてるの」


「それ、蓮花に言わなきゃ駄目?」


 ずぶりと、心臓に包丁を突き立てられた気がした。それは、出会ってから初めて与えられた明確な拒絶だった。今すぐスマホを放り投げて、謝りたい衝動に駆られる。油断すると、泣きついてしまいそうだ。いやだ、嫌いにならないで、と。


「そういうわけじゃない、けど。でも、あの、心配、だから」


 嘘じゃない。嘘ではないけれど、全てでもなかった。けれどよもぎは、ややあってから顔を上げて、「ごめんね、ありがとう」と言った。

 心臓の下が軋むように痛い。


「アプリ消して、すっかり忘れてたんだ。あーあ、うちも馬鹿だなぁ。ちゃんとアカウント削除しなきゃだ」


 もう一度深々とため息をついて、ゆっくりと立ち上がる。そのまま実験室の四角い椅子に腰かけて、ぺとりとテーブルに伏せた。緩やかに波打つ明るい茶髪が、黒塗りのテーブルへ広がる。

 薄暗がりの中で、彼女の髪は、金色のさざ波みたいだった。


「うちね。女の子が好きなんだ」


 知ってる。

 けれど、改めて口にされたその言葉は、私の背中を強く震わせた。


「昔っから、そうなの。初恋が幼稚園のミズキ先生で、次が幼馴染の早苗ちゃん。次もその次も、みーんな女の子」


「…………そうなんだ」


「で、まあ、恋愛としては全敗だよね。やっぱり」


 抑揚のない、ぱさついた声だった。淡々とした語り口が、彼女が歩いてきた荒野の寒々しさを否応なく想像させる。


「これでも結構、頑張ってきたつもりなんだ。本当は、カッコいい感じの女の子になれたらよかったんだけど。体系とか顔とか、全然似合わないし。うちらしくないな、って思って。だからせめて、可愛くなろーって」


「可愛いよ。よもぎは」


「ありがと」


 彼女がすれば、愛想笑いでも天使みたいだ。掛け値なしでそう思う。


「一年のとき、うち、花園さんのグループからハブられたでしょ」


「うん」


 それも知っている。だから彼女は、一人で演劇部の公演へと訪れたのだ。こんなことは絶対口に出せないけれど、私は、彼女が孤立したことを神様に感謝している。


「あれね。うちが花園さんに告白したからなんだ」


「……あぁ」


「まぁ、困るよね。フッた奴と同じグループはキツいでしょ。それでも言いふらしたりとかしなかったんだから、好きになって良かったなって思うよ。おかげで蓮花とも友達になれたし」


「……うん」


「でも、やっぱり女の子と付き合いたくて。っていうかその、正直、あの、……なこととか、してみたくて」


 よもぎは、鼻先をカーディガンの生地に埋めながら、もごもごと言った。その耳は、薄闇の中でも分かるくらいに赤く染まっている。

 ……ん? 今、なんて言った?


「やっぱり、興味あるじゃん。そういうの。お年頃だもん。その、ね」


 私の聞き間違いではなかったらしい。


「よもぎ、本当に目的でマッチングアプリ始めたの⁉」


「しーっ、しぃーっ! 静かにしてよぉ! 誰かに聞かれたら、うち死んじゃうよぉ!」


 がばっと起き上がって、必死で人差し指を唇に立てる。さっきまではただ愛らしかったその姿が、どこか別人に見えた。艶のあるリップに、優美な曲線を湛えた頬の形に、目を奪われそうになる。

 しばらく廊下に面した引き戸を見詰めた後、彼女は「はーっ」と胸を撫でおろした。


「……蓮花は? そういうの、興味ない? 私だけ? うち、やっぱりおかしいのかな」


「お───……おかしくは、ない、と、思うよ。うん。おかしくは、ない。普通」


 そのはずだ。男女別で行われた保健体育の授業でそう習った、ような気がする。

 でも、だからって出逢い系にまで手を出すのは、普通なんだろうか。さすがに大胆過ぎないか。いやというか。

 そんなに乾いていたなら、もっと手近なところで済ませてよ。


「でね。でも、初めてみたらやっぱり怖くて、誰にもハートを送れなかったの。そしたら、新学年になってすぐ、土屋さんが私に話しかけてきて」


 土屋もまた、私と同じように、あのプロフ写真がよもぎのものだと気づいたらしい。


「こんな風に呼び出されて、その」


「脅迫されたの?」


「違うよ! なんでそうなるの⁉」


 決まってる。土屋琥珀だからだ。

 けれどよもぎは、ぽわんと夢を見るような顔で頬に手を当てた。袖口から覗く指先が、赤く染まった頬を中途半端に隠す。


「その。土屋さんは、うちに色々教えてくれたの。興味があるのは分かるけど、高校生の間は危ないから止めたほうがいい、って。それで、あんまり親身になってくれたから、うち、つい言っちゃって」


「何を?」


「だから、その。……お、女の子が好きだって」


 だんだん、この舞台の筋書きが見えつつあった。


「そしたら、土屋さん───琥珀ちゃんも、そうだって。琥珀ちゃん、すごく綺麗だし。うちもう、これ運命だって思って、そのまま、告白しちゃって」


 きゃあ、と真っ赤な顔を両手で覆う。

 この告白、私はどういう気持ちで聞くのが正解なんだろう。想い人が宿敵に惚れた経緯を情感たっぷりに聞かされて、どうしてまだ、正気を保っているんだろう。

 叶うなら、今すぐに発狂したかった。


「へー、よかったね……」


 乾いている私に気づかないまま、よもぎは「実はね」と言った。正直、もう何も聞きたくない。だからといって、言葉を塞ぐわけにはいかなかった。


「実は、うちね。蓮花のこと、好きだったんだ」


「…………………………えっ?」


「本当は、クリスマスのとき、告白しようかなって考えてた。でも、やっぱり脈なしだなって思ったから、黙ってたの。ごめんね、こういうの、迷惑かなって思ったけど。隠してるのも卑怯な気がして、言っちゃった」


 ───ね。蓮花は、うちに恋人が出来たら、寂しいって思う?


 ───まさか。嬉しいって思うよ。よもぎなら、きっと素敵な人が見つかるよ。


 ああ、そうか。

 あの質問は、私を試す試金石だったんだ。

 そして私は、彼女の黄金にはなれなかった。


「えへへ。あっ、でも、今は誓って琥珀ちゃん一筋だから。蓮花のこと、そういう目で見たりしてないから。だから、その、よければ、これからも友達でいて欲しいな」


 手練れのあざとさで、よもぎが私の両手を掴んだ。冷え切っていた手のひらに、柔らかな熱が移る。完璧な上目遣いに一滴ひとしずくの媚びを込めて、よもぎが私を見つめた。


「うちのこと、嫌いになった? まだ、友達でいてくれる?」


 嫌いになったよ、と言ってしまいたかった。言えるわけがない。何しろこの後に及んで尚、私はこの手の温もりを離したくないと思っている。

 声がかすれないよう、肚に力を込めた。


「……なるわけ、ない、よ」


「蓮花!」


 よもぎが、握った手を解いて抱き着いてくる。貧弱な彼女なりに精一杯の力を込めただろうハグには、一片の曇りも無い友情が満ちていた。


「ありがと、大好き!」


「……うん」


 私も大好きだよ。よもぎとは違う意味で。

 今ここにタイムマシンがあったなら、命を捨ててでも乗り込んでみせるのに。

 明るい色の茶髪が、首筋をくすぐる。ぎゅうぎゅうと無防備に私を抱きしめたあと、よもぎはそっと身を離した。

 私は何も考えず、というか何も考えられないまま、仄かな祈りを込めて尋ねた。


「その。土屋───さん、とは、上手くいってるの?」


「それは……」


 私の問いに、よもぎが目を伏せる。透明な瞳に、微かな憂いが宿った。とくん、と心臓が跳ねる。


「実はね。琥珀ちゃんに告白したとき、最初はフラれちゃったの。ずっと前から、片想いしてる人がいるからって」


「えっ?」


 好きな人。

 あの土屋琥珀に?


「でも、うち、諦められなくて。もうすごい好きになっちゃってて、だから言っちゃった。その。それでも良いから、うちと付き合ってください、って。そしたらね、付き合ってもいいけど、ひとつ条件があるって」


「条件、って?」


 そして、更なる爆弾が放たれる。


「うん。『』って」


 全てを打ち明けたよもぎは、大きな深呼吸をして、真っ直ぐに私を見つめた。その右手は、際限のない高鳴りを抑えつけるかのように、ぎゅっと胸の辺りを掴んでいる。


「うちね。琥珀ちゃんが好きなの」


 熱っぽい息が、実験室の薄闇に溶けていく。

 信念と確信に満ちた台詞だった。思春期の恥じらいや、くだらない見栄や虚飾を打ち捨てて、きちんと自らの心と向き合った者だけが成し得る、宝物のような宣言だ。

 自分が好きなものを好きだと口に出すことは、本当は、とても難しいことなのに。


「だから、琥珀ちゃんが本命の子を忘れちゃうくらい、頑張るつもり」


 そうして草野よもぎは春みたいに微笑む。

 疑いようもなく、彼女は輝かしい恋をしていた。


 その恋が光を放っていればいるほど、私の影は色濃く落ちる。彼女の恋路に立ち塞がる路傍の石こそが私だ。拗れた本心を告白する勇気も、醜い部分を晒け出す決意もないくせに、ただ緑の目をした怪物の声に従って、縋るように彼女の足を引いている。

 私だって、脳味噌のない案山子じゃない。ここまで言われたら誰でも気づく。

 土屋の本命は、私だ。

 意味が分からないけど、信じられないけど、多分、そうだ。

 よもぎの前に広がる、煌めくような恋路に立ち塞がる障害物は、他の誰でもない。

 水谷蓮花が好きなのは草野よもぎで、草野よもぎが好きなのは土屋琥珀で、土屋琥珀が好きなのは水谷蓮花だ。

 部室の隅で、雫に伝えた言葉が蘇る。

 AはBが好きで、BはCが好きで、CはAが好き。

 円環する関係性は、どこにも辿り着かず、ただひたすらに落ちていく。

 私は震える手をスカートに隠して、薄っぺらい微笑みを返した。


「……うん。応援するよ、よもぎ」


 呆れるくらいに嘘だった。

 でも、好きな人が自分ではない誰かを好きになったとき、それを心の底から応援できる女なんて、果たしてこの世に一人だっているんだろうか。

 だって今、私は、こんなにも血反吐を吐きそうなのに。

 いつかの問いをもう一度繰り返す。

 一体ここは、なんて名前の地獄だろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る