第18話
駅へ向かう道の途中に桜がある。ピンクの花はもうすっかり散って、緑の葉が茂るばかりだ。気の早い生徒の一部は、ブレザーを脱ぎ始めていた。
「あったかくなってきたよね」
「うん」
「うちね、今くらいの季節が一番好き」
「分かるよ」
「暖かい春が、好きなんだ」
温いそよ風の吹く街路を、よもぎと並んで歩く。少し前まで当たり前だった行為が、今はひどく心に沁みた。淡い黄色のカーディガンを羽織った彼女は、春そのもののようだ。
「なにしろ、うちは春の季語だからね」
何がおかしいのか、くふふ、と笑う。
ニットに包まれた手の甲に、私の手の甲が触れた。
そして、触れただけだった。
今日はもう充分に暖かくて、私は彼女の恋人ではないから、私たちは手を繋がない。
空っぽの右手が空を掴む。
私は寂しさを誤魔化すように、手をスカートのポケットに───本当に、それでいいのか?
深い沼底で、何かが囁いた気がした。
ここで、引いていいのか?
口内に残ったミントの残り香が、私の不徳を煽り立てる。
そうだ。よもぎが私の手を引いてくれないなら、私から手を繋げばいい。
これまではずっと、よもぎからだった。でも、女同士友だち同士、手を繋ぐなんて当たり前だ。制服を着ている今なら、なおさら微笑ましい。だから、私から手を取ったって構わない。
でも。
固い唾を飲む。
女同士で手を繋ぐなんて当たり前だ。でも、草野よもぎは土屋琥珀と付き合っている。
女の私が、女の恋人がいる女と手を繋ぐのは、間違いかもしれない。
逡巡する頭の中に、バスを待つよもぎと土屋の残像が浮かんだ。恋人繋ぎで結ばれた手。ちりちりと胸が灼ける。緑の目をした怪物が、遠くで私を見ている。
本当はもう、理解していた。ただ待っているだけなんて、あまりにも不毛だ。手を伸ばさなければ、何も手に入らない。
ショーウィンドウの奥にある宝物だって、指を咥えている間に誰かが掠め取っていく。
そんな当たり前のことを、今、初めて知った気がした。
息を深く吸って、吐く。
きっと、この道は間違っている。未練ばかりを手繰り寄せる、地獄の底への一里塚だ。
それでも。
それでも今の私は、目に見えない正しさなんかより、よもぎの手の感触が欲しい。
───行っちゃえ。
私はスカートに手を擦りつけ、カーディガンの袖ごと、小さな手をぎゅっと握った。
「ん?」
「え、あ」
見上げられて、視線がきょどる。
「珍しいね、蓮花からなんて」
「そう、かな」
よもぎは繋がれた手を見下ろし、二度瞬きをし、そして、「ま、いっか」と小さく呟いた。
どう言う意味だ、と考えて、ひとつしか思い当たらない。出来るものなら、よもぎの頭に浮かんだ女の影を殺したかった。
じわりと手汗が滲む。
指先から、指の骨の形が伝わってくる。小さい。可愛い。
可愛い女は骨まで可愛いんだ、と思った。
きゅうう、と胸が締め付けられるみたいに苦しい。
でもやっぱり、恋人繋ぎにはならなかった。繰り返しになるが、何しろ私は恋人じゃない。
†
「ここでーす」
よもぎが、「じゃん」とばかりにオートロックのエントランスを両手で示す。いちいち可愛いから止めて欲しい。ちょうどエレベータからご婦人が出てくるところで、「あらあら」と上品に笑われた。
よもぎが俯いて、真っ赤になる。
駅から歩いて十五分。大通りを外れた場所に建つ十階建マンションの一角が、草野宅だった。
「上がって上がって」
「お邪魔します……」
草野家は共働きだそうで、この時間は二人とも不在だそうだ。雫の靴も無かった。どこかに寄り道しているのだろうか。
革のローファーを脱ぐ瞬間、微かに緊張した。白木のフローリングは、慣れ親しんだ自宅のそれよりもひやりと冷たい。
リビングへ向かう廊下の途中、ドアが半開きになった部屋があった。木の板がつり下がっている。そこに、小学生のような字で「よもぎ」と書いてあった。
「そこ、うちの部屋」
「あ、うん」
そうなんだ。
なんだか全体的に桜餅みたいな部屋だった。草餅だったり桜餅だったり、いちいち甘そうで困る。
本当に困る。
リビングに据えられたソファに座ると、すぐにグラスに入ったアイスティーが運ばれてきた。いつの間にか、喉がひどく乾いている。手を伸ばすと、「ちょっと待ってね」と止められた。
「これ、食べて食べて」
冷蔵庫から出てきたのは、真っ白なレアチーズケーキだった。すでにカットされていて、二色のベリーがちょこんと載っている。
「うちの手作りで、申し訳ないんだけど……」
フォークを掴んだ指が、ぴくりと止まった。私はよもぎの顔をまじまじと見詰める。その健気さは、ほとんど反則だ。本当にやめて欲しい。私の頭がおかしくなってしまうから。
手遅れかもしれないけど。
「あの、ありがとう。今度お礼するから、」
「や! 違うの、ほんと気にしないで! ちょっと練習で作り過ぎちゃって……うち、両親とも甘いの駄目で。雫は飽きたっていうし。冷蔵庫埋まっちゃうしで困っちゃって」
空を歩くような高揚が、一瞬で冷め切った。
わたわたと告げられた言葉の中にひとつ、聞き逃せない単語が混じっている。
「───練習?」
「あっ」
両手で口を塞ぐ。よもぎは左右に視線を振った後、おそるおそる手を下げた。ふくふくとした頬っぺたが、小ぶりで形のいい耳朶が、桃色に紅潮している。
熱っぽい息が、その唇から零れ落ちた。
「……うん、練習……」
「そっか」
「うん」
よもぎの手が震えていた。
練習の後には本番が控えているものだ。私は、その相手を知っている。それでなくても、よもぎの態度は答えを告げているも同然だ。
疑いようもなく、草野よもぎは恋をしていた。
もちろん、知っていたけど。
「恋人、できたんだ」
「………………ん」
今日見てきたどの瞬間よりも可愛くなったよもぎが、口元を袖で隠す。ささくれ立つ心を宥めすかして、私は芝居を打つ。大丈夫。私にはきっと、役者の才能がある。
「すごい。おめでとう。どんな人?」
「……ひ、秘密」
「ちょっと、それはなくない? 誰にも言わないから」
「えぇ、でもなぁ。その、ええと。えー……なんだろ。頭が良い人?」
知ってる。
「他には?」
「うえ。えと、き、綺麗な人?」
それも知ってる。ただ、少し迂闊な回答だ。女子高生が恋人に使う形容詞としては、違和感が強い。
「綺麗なのはいいね。後は?」
私は何を訊いているのだろう。よもぎの目に映る土屋について知識を深めて、どうなるっていうんだ。それでも、口が勝手に動いて止まらない。
よもぎは手のひらで顔を扇いでから、ことんと、硝子細工を置くような丁寧さで言った。
「それから───……それから、こんなうちを、受け入れてくれる人」
な、ん、だ、そ、れ。
土石流みたいな感情が、どっと心を押し流していく。そんなのでいいなら、私だっていいじゃないか。土屋みたいに特待生じゃないけれど、私だってそれなりに勉強ができるし、土屋ほど飛び抜けて美しくはないけれど、私だってそれなりだ。
なにより、一番最後の理由なら、きっと誰にも負けないのに。
喉元まで言葉がせり上がる。
よもぎの恋人、土屋でしょ。土屋琥珀。知ってるよ。
あいつだけは止めておきなよ。性別どうこう以前に、恋人として終わってるよ。性悪最悪だし、なにより、よもぎは知らないと思うけど。あの女、浮気してるよ。まだ付き合ってひと月も経ってないのに。相手はね。相手は。
───私だよ、よもぎ。
私、よもぎの恋人とキスしたんだよ。
ついさっきも。
だって、仕方がないじゃないか。そうしないと、あいつ、よもぎとキスするって言うから。そんなの、許せないから。
きっと、よもぎの恋人が男の子であれば、私はこんな罪を犯さなかっただろう。子供のように泣いたかもしれないけれど、きっとそれで終わりだった。雨の後の虹のように、いずれは祝福さえ出来たかもしれない。
それなのに。
なんで土屋なんだ。そう思う。
土屋は私よりいくらか胸が大きいし、成績が良いし、華奢で色白でとても綺麗だけれど、それらは全て、私という生物の延長線上にあるものだから。
だから、私より彼女が上に行くことを、どうしても許せない。
視界がぼやける。強く、強く拳を握った。やめろ。みじめになるだけだから、泣くなばか。
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