第17話

 禍福は糾える縄の如し。という諺を、不思議とよく覚えている。あざなえる、という言葉の響きが好きだ。まず日常生活では使わない。どこか神秘的でさえあるように思う。

 不幸の後に幸運がある、という考え方は、なかなか素敵だ。現実はなかなか上手くいかないけれど、希望があるに越したことはない。

 時折は諺が当たることもある。

 私の福は、週明け早々にやってきた。



「蓮花、お口あーけーてっ」


 反射的に開けた口の中に、ソフトキャンディが降ってきた。いちご練乳味。甘い。


「……ありがと」


「いいってことよ。あのね、蓮花。今日の放課後ひま?」


 朝のホームルーム直後のことだ。今日のよもぎは、緩く巻いた髪の一部を三つ編みにしていた。窓から差す日の光を浴びて、淡い茶髪が金色に煌めく。


「暇だけど。部活、休みだから」


「やった。じゃあ、うちんちで遊ばない?」


「うちんち?」


「うちのうち。実は駅近なんだ」


 ほう。よもぎの家。家?


「……いや?」


「そんなわけないです」


「何で敬語なの?」


「いやその、ごめん気にしないで。分かった。行く。絶対行くから」


「お、おぉ。なんか、食いつき凄いね……?」


 その日の授業時間は体感五割り増しだった。現金な自分の心を馬鹿みたいだと思いながら、弾む鼓動が止まらない。

 でも、この会話はちゃんと聞かれていたらしい。誰に? もちろん、黒髪の悪魔に。


  †


「水谷」


「うわっ、出た」


 二限と三限の間の、休憩時間のことだ。私が女子トイレで手を洗っていると、ふらっと土屋がやってきた。


「なに、人を幽霊みたいに」


「似たようなもんでしょ。てか、人前で話しかけないでよ。あんたと仲良いとか思われたくない」


 土屋はちらと個室を確認して、肩をすくめた。どのドアも空いている。


「誰もいないけど?」


「いつ入ってくるか分かんないでしょ」


 ハンカチで手を拭く。脇を通り抜けようとしたら、バスケのディフェンスみたいに行く手を塞がれた。うざい。


「ちょっと、なに。邪魔なんですけど」


「草野さんの家、行くんだ?」


 ぐっと舌打ちを飲み込む。地獄耳め。


「盗み聞きとか趣味悪いよ。別にいいでしょ」


「私が行くのは止めたくせに。なかなかちゃっかりしてるね、水谷」


「友達なんだから、普通でしょ。あんたと違って、下心があるわけじゃないんだから」


「ふうん。本当に?」


「……当たり前でしょ」


「ははっ」


 人を小馬鹿にした目つきで、土屋が冷笑した。


「水谷って、嘘つきだよね。そういうとこ、イラッとする」


 そのとき、廊下側から女子たちのかしましい笑い声がした。強引に横を抜けようとした私の腕を、土屋が掴む。

 え、なに。

 疑問で身体が固まった瞬間、私は個室に引き摺り込まれていた。土屋が、後ろ手にロックを掛ける。


「ちょっ、」「しぃ」


 叫びかけた私の口に、人差し指が押しつけられた。慌てて唇を閉じる。こんな場面、誰かに知られたらもう死ぬしかない。

 土屋が髪を耳に掛けた。形の良い耳朶が現れ、ピアスが蛍光灯の光を鈍く反射する。

 彼女は私の耳元に口を近づけ、囁いた。


「声、出したらバレちゃうかも」


 両肩を軽く押されて、バランスが崩れる。蓋の上から、便座に座り込んだ。間髪入れず、土屋が、私の腿を跨ぐように覆い被さってくる。狭すぎて、どこへも逃げられない。


「あんた、ほんと何考えて───ひゃッ」


「静かに」


「……!」


 生暖かく湿った感触が、私の喉を這いずった。皮膚の薄い場所を刺激されて、背筋に怖気が走る。生温い舌が、ゆるゆると鎖骨をなぞり上げていく。


「古典の宿題やってきた?」「一応。見る? 苺ミルクでいいよ」「サトセン、今日機嫌悪かったね」「生理じゃない?」


 薄いドアの向こうから、ありふれた会話が聞こえた。喚き出したい衝動を必死で堪えて、土屋の二の腕に爪を立てる。

 でも、頑丈な制服で守られた身体に、そんなものが効くわけない。

 お互いの上半身が触れて、間に挟まれたブレザーがくしゃりと折れる。バクバクと音が鳴っているけれど、その鼓動がどちらの心臓のものかも分からない。

 土屋が上着のポケットに手を入れて、何かを取り出した。青緑色をした、小さな包みだ。

 彼女が淡々と宣告した。


「飴、あげる。口開けて」


「いい。いらない」


「水谷に、拒否権とかないから」


 土屋が包み紙を噛み切り、中身を自らの舌に載せた。透明な飴玉。狭い個室に、ミントの匂いが充満する。

 どういうつもりか問う前に、口を塞がれた。

 固い飴が、かちかちと前歯に当たる。どろりとした甘さが溶け出した。それを塗り込むように、舌が前歯を撫でていく。


「ふぁべて」


 半ば唇をつけたまま、土屋は私に命令した。

 顎に力を込める。反抗する私を見て、舌が侵略を再開した。

 土屋は、乱暴で強引だった。荒々しく前歯の上をなぞり、歯と歯の間をこじ開け、飴を押し込もうとする。私は、必死になってそれを拒絶した。

 癇癪を起こしたみたいに、生暖かい感触がべろべろと歯列を舐める。

 怒り。苛立ち。不満。そういうマイナスの感情が、舌を通して伝わってきた。拒否されたことへの抗議だけに留まらない、もっと強い感情が。


 ───土屋。あんた、なにがそんなに気に食わないの。


 おそらく彼女は怒っている。顔色は平然としているけれど、こうして唇を合わせていると、不本意ながら分かってしまう。

 どうしてこいつが腹を立てているのだろう。思い当たる節なんて、ない。あるとすれば。

 まさか。

 馬鹿げてる、と思った。こいつは私のことを玩具か何かとしか思ってないはずだ。そうでなければ、こんな、尊厳を無視した真似は出来っこない。

 もぞりと、土屋が腰の位置を整えた。押し付けたように思えなくもない、絶妙な動きだった。太腿の肌が触れ合っていることを、強く意識してしまう。

 上唇と下唇を一度ずつ甘噛みして、ようやく口が離れた。

 飴玉は、溶け切っていた。

 互いの口からミントの香りがする。

 土屋が、垂れた涎を舌先で舐めとった。冒涜的に卑猥な仕草だった。


「開けて、って言ったのに。まあいいや。ごちそうさま」


「最っ低」


 腹の底から毒を吐く。いつの間にか、ドアの向こうの気配は消えていた。


「あれ。良くなかった?」


「そういう問題じゃないし、良いとか悪いとかわかんないし、相手が土屋の時点で良いとか無いし」


「目、とろんとしてたけど」


「そんなわけないから。ていうか、あんたこそ、」


 随分がっつくじゃん。私がよもぎの家に行くって聞いて、嫉妬でもした?

 なんて、口に出せるわけもない。鼻で笑われて終わりだ。そうに決まってる。


「なに?」


「……なんでもない」


「ふうん。あ、水谷。涎、垂れてるよ」


「えっ」


「嘘、嘘」


「死ね。ほんっと死んで」


 毒づく一方の私の頬に口づけを落として、立ち上がる。私も立とうとして、愕然とした。


「腰、抜けちゃった?」


「は? そんなわけないじゃん」


 あった。

 腰なのか太腿なのか、とにかく力が入らない。スカートから伸びた足が、かくかくと痙攣していた。土屋が、「うわ」と目をすがめる。


「え、まじ? ほんとに腰抜けちゃったの? あはは、可愛いね。水谷」


「違う、これは違うから……!」


 羞恥と怒りで、顔が真っ赤になっていることを自覚する。

 血が巡り、過敏になった頬を、細長い指が摘んだ。冷たい目が私を見下ろす。


「草野さんの家、行ってもいいけど。変なことはしちゃ駄目だよ。あの子は、私の彼女なんだから」


 土屋はそう言い残して、お先、と個室を後にした。

 私は、十五分くらいそのままでいた。ミントの匂いがする息を吐きながら。

 授業に遅れた私は、顔を赤くしながら体調不良を言い訳にした。土屋は、窓際で涼しい顔をしていた。

 僅かに空いた窓から、そよ風が吹き込み、彼女の黒髪を撫でている。

 頼むから死んでほしい。百万回くらい、そう思った。

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