第16話

 そのうちに母がチーズケーキを持ってきたので、二人で食べた。土屋は慎重に包装を剥がし、折り目正しい仕草でフォークを差し込んでいた。


「美味しいね、これ」


「そうすか……」


 私、何やってんだろう、と思いながらプリン色の表面を切り刻む。大きめの一欠片を、ぶすりと刺して口に放り込んだ。こんなときでも、ケーキは甘くて美味しい。


「水谷」


「なによ」


 顔を向けると、指が伸びてきた。私の口元の、ほとんど唇と言っていい場所に、真珠みたいな爪が触れる。

 あ。と言う間もなく、チーズケーキの破片は土屋の唇に消えた。


「ちょ、おま、なに、なな」


「今は、水谷が草野さんの代わりだから。これくらい、いいよね」


 切れ長の目元に、隠しきれない鋭さがある。嫌だと言ったら、次は唇が飛んできそうだ。私は近来稀に見る行儀のよさで、丁寧に丁寧にケーキを完食した。全く、油断も隙もない。

 皿と入れ違いにやってきた紅茶───こんな洒落たティーカップが家にあったとは知らなかった───を飲みながら、私はちらりと土屋の横顔を覗き込んだ。

 こんなことを尋ねるのはどうかと思うけど、もういい加減、訊かないわけにはいかない。


「あんたさ。その。私のこと、す、好きなの」


「結構自意識過剰だよね、水谷って」


 何だと。


「いやだって、誰でも良いってわけじゃ、ないんでしょ」


 土屋は私の顔を半眼で見遣り、それからついと視線を逸らした。伏せた目には憂愁が宿り、それがまた出来の良い顔によく似合う。

 つくづく容姿だけは良い女が、呟くように言った。


「まあ、それはそうだね」


「じゃあ、」


「誰でも良いわけじゃないけど、別に、水谷の顔はそこまで好みじゃないよ。おっぱいも小さいし」


 物凄くハラスメントな発言をして、土屋はため息を吐く。それはなんだ。私の胸囲に対するため息か。頼むから百万回死んで欲しい。

 独白のように、土屋が言った。


「私に、水谷が声を掛けてきたから。きっと、それだけ」


「……あーはいはい、そうですか……」


「ああ、でも、水谷で遊ぶのはめっちゃ楽しいけど」


 切実に死んでほしい。

 糖分と脂質を落としたばかりの胃がむかむかする。再びゲーム機を手に取る気分にもならなくて、そのままフローリングに転がった。土屋は二人分のティーカップをお盆に載せて一階へ運び、母の更なる感心を買っていた。抜け目がなくて大いに結構。



「そろそろ帰る」


 読んでいた漫画本を閉じて、唐突に土屋が言った。窓の外は、夕暮れの赤から黄昏の藍色に変わろうとしている。

 結局、ケーキを食べた後は二人でごろごろしていただけだった。

 立ち上がった土屋が、乱れたリボンタイを解いて締め直す。一瞬、開いた第一ボタンの合間から、首元が露わになった。白い肌に落ちた陰影の生々しさに、見てはいけないものを見た気がして、そっと目を逸らす。


「この漫画、借りていい?」


「……いいけど」


 別に漫画の一冊くらい。そう思って返事をすると、彼女はいそいそと最新刊まで全てリュックに詰め込み始めた。いい性格をしている。知っていたけど。

 でも、これで済むなら御の字だ。最悪、もっとこう……アレなことをされると思っていた。

 正直、拍子抜け───じゃない。胸を撫で下ろした気分ではあったから。


「あ、そうだ。忘れ物」


「忘れ物? あんたなんか持って、」


 振り返った瞬間、唇に柔らかなものが触れた。怪盗みたいな早業だった。


「ひゃっ」


 ついでのように、胸も揉まれた。


「っ、この、もう、ほんともう……!」


 両胸を腕で隠して、身をよじる。屈辱が頬を焼いた。土屋は自分の右手を見下ろして、嘲るように鼻で笑い、そしてつまらなそうに言う。


「やっぱり、いまいちだね」


「死ね!」


 明日の勉強会は、まじめに勉強だけを教えるから。アドバイスどおり、理数系を中心に。

 そう言い残して、土屋は去っていった。微かなペパーミントの香りだけを残して。

 結局、土屋の目的は何だったのだろう。一人に戻った部屋で、この数時間を振り返る。ゲーム、アルバム、漫画、ケーキ、キス、セクハラ。

 彼女は何を期待して私の部屋を訪れ、それは叶えられたのだろうか。後半、どことなく不機嫌に見えたけれど、何か気に触ることがあったのか。

 黙々と考えているうちに、私を呼ぶ声がした。

 はっとして時計を見る。夕食の時間だ。すでに一時間以上経っていた。なんて無駄な時間だ、と思った。


「あの人、お姉ちゃんの友だち? すっごい美人だったね!」


 食卓に着いた妹の目には、ハートマークが浮いている。人を外見だけで判断すると痛い目に合うということを、どうすれば分かってもらえるだろうか。

 その日の夕食は、彼女の話で持ちきりだった。とっくにお腹いっぱいなので、もう勘弁して頂きたい。

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