第19話
「蓮花?」
堪えきれず、私の目尻からぽろぽろ涙が零れた。今月に入ってもう三度目だ。いつから私は、こんなにも泣き虫になってしまったのだろう。
「ふふ。なぁに、うちが取られて、寂しくなっちゃった?」
そうだよ馬鹿。
よもぎは立ち上がり、しゃくり上げる私の隣に腰掛けた。私の背中に手を回し、そっと胸元に引き寄せる。
私は成すがままに身を預けた。額にリボンタイの生地が擦れる。鼻先が、第二ボタンとは第三ボタンの隙間に埋まった。桃に似た甘やかな香りと、柔らかな感触が胸の痛みを和らげていく。
「くすぐったいなぁ、もう」
私の髪を、小さな手が撫でさする。これが他人のものだなんて嘘だ。よりにもよって土屋のものだなんて、最悪にもほどがある。
私の中で、緑の目をした怪物が、ぐるぐると唸り声を上げている。
その唸りに導かれるように、私はようやく理解した。
そっか。
私、よもぎのことが好きだったんだ。
これまで思ってきたよりもずっと強く。これまで私の前を通り過ぎてきたどの友達とも違う角度で。
草野よもぎが好き。多分、世界で一番、好き。
半年前の、あの文化祭の日からずっと。
「……っく」
あまりにも今更だった。
彼女の手が、するりと私の頭から滑り落ちる。ぺとり。指先がうなじに貼りついて、人差し指が背骨の突起を撫でる。
微妙な刺激に、ぴくんと背中が跳ねた。
熱いものに触れたみたいに、よもぎが硬直する。
「ご、ごめん、くすぐったかった?」
「大丈夫」
唇から熱い息が漏れた。離れてしまった指先が、もう恋しい。どこでも良いから、触れたままでいて欲しかった。
「気持ちいいから、もっとして」
言った瞬間、頬が燃えた。何。何言ってんの、私。
「あ、いや! 今のは違くて!」
「……ふうん?」
垂れ気味の目に、悪戯っぽい光が宿る。跳ね上げた頭が、再び胸元に押しつけられた。首筋に小さな指が触れて、私はくたくたと脱力する。
「かわいいね、蓮花は」
「そんなこと、ない」
かわいいのはよもぎのほうだ。ばか。よもぎのばか。大嫌い。
嘘。もちろん嘘だ。
あなたのことが大好き。でもごめんなさい。弁解の余地さえなく、私はあなたを裏切っている。
「ん、しょっと」
そのとき、よもぎが微かに姿勢を整えた。私の身体をより深く受け入れるような、慈愛に満ちた動きだった。髪を撫でていた手が背中に回り、トントンと優しく叩く。
私は浅い息を吸って、静かに息を止めた。
そうだ。私は罪人で、裏切り者だ。
───それなら、いっそ。
耳に意識を集中する。膨らみ越しに聞こえる鼓動は、トクトクと早鐘を打っていた。
この心臓が、他人の、土屋のものになってしまうくらいなら。
それなら、いっそ、私が。
少しくらい、強引にだって。
鼻先を、彼女の胸に擦り付ける。嫌がる素振りはない。唾を飲む。受け入れられている、と思った。息が荒くなる。無意識のうちに、左手が滑らかな膝に触れていた。それも、拒否されなかった。
「……蓮花?」
今、この家には私たちしかいない。
大丈夫。よもぎはきっと、私を拒絶しない。許してくれる。優しいから。寛容だから。私たちは、親友だから。
だから、だから、だから。
喉が詰まりそうなくらい、息が苦しい。私はよもぎの二の腕を握り締め、リボンタイの端を唇で咥え、しゅるりと、
「ただいまー! あれ、お姉、誰か来てんのー?」
がちゃりと重たい扉が開く音がした。ぱたぱたと軽い足音がその後に続く。
のぼせていた頭が、瞬時に冷えた。背筋がぞっと震える。
私、今、何を。
「ご、ごめん!」
がばっと顔を上げる。よもぎが、やはは、と誤魔化すように笑った。胸元がはだけ、その頬がわずかに染まっている。
「な、なんか照れちゃうね」
「っ、あの、ちょっとトイレ借りるから」
私は逃げ出した。リビングを飛び出して、すれ違う雫と目も合わせずに、個室に隠れて鍵を掛ける。
おそるおそる、左胸に手を当てた。
心臓がどくどくと音を立てて拍動している。肉と骨の内側が、締め付けられるように痛い。
嘔吐するときのように、花の香りの便座を抱えた。そうしていると、本当に吐き気が込み上げてくる。
分かっている。
熱に浮かされて。あるいは、雰囲気に流されて。私は今、取り返しのつかないことをしようとした。
「……最低……」
下唇を強く噛む。
土屋に告げた言葉が我が身を切り裂く。下心がない? あいつの言うとおり、私はとんだ嘘吐きだ。
自分が、こんなにも醜くなれることを初めて知った。今すぐ、ベランダから身を投げてしまいたかった。
人を好きになるということを、綺麗なものだと思っていた。星のように彼方にあって、光り煌めくものだと。舞台の上にある恋は、どれもこれも美しかったから。
けれど違う。
夜空に浮かぶ月だって、近づいてみれば灰色の荒野でしかない。
もしこれが、この澱んだ泥のようなものが恋の正体だというのなら、私がこれまで愛だと思っていたものは何なんだ。
青緑色の藻類で濁った泥沼の、ほんの上澄みを掬って煮詰めて濾過した水を美しいと崇めて奉るような。
そんな真似を、ずっとしていたのだろうか。
「───死ねばいいのに」
強く、そう思った。
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