第13話

 大量の藻に侵略された噴水は、底の見えない深緑色をしていた。緑の生命に埋め尽くされた水は、暗く澱み、沼のようだ。

 噴き上がる水柱だけが透明で、無数の水滴が、きらきらと午後の光を反射していた。

 人工芝に腰を下ろし、筆箱から鉛筆を取り出す。

 校内写生と聞いて、すぐに思い浮かんだのここだった。名字のせいか、昔から妙に水回りが好きだ。

 そうして、いざ写生を始めようとしたときだった。

 

「水谷」


 振り返る。声の主を確かめて、私は眉間に皺を寄せた。白い校舎を背に、スケッチブックを手にした土屋が立っていた。

 金曜五限の美術は選択授業になっている。元吹奏楽部のよもぎは音楽で、楽器全般が苦手な私は美術。

 そして、土屋も美術だ。


「隣、いい?」


「……好きにしたら」


「どうも」


 土屋は私のすぐ隣に座り、同じように噴水のスケッチを始めた。すぐに絡んでくるかと思えば、無言で手を動かしている。

 真剣さの割りに、紙の上の風景は歪んでいた。絵心は無いらしい。

 十五分ほど経っただろうか。土屋が、ふと口を開いた。


「よく考えると、写生のモチーフに噴水って難易度高すぎない? 水の描き方が特に謎だよ。止まるし、動くし」


「そう思うなら、移動すればいいでしょ」


「や、まあ」


 何が「まあ」だ。

 校舎の中庭に、鉛筆を擦る音が響く。時限式の噴水が止まり、周囲に静かさが立ち込めたとき、思い出したように土屋が言った。


「約束、守ったよ」


「……あ、そ」


 鉛筆を握る手は止めずに、私は大きく息を吐いた。沁みるような安堵が、全身に広がる。この女を信用するのはどうかと思うけど。

 嘘は言っていない気がした。その直感に、縋りたい。


「ところで次は週末にデートするんだけど」


 ずがんと胃が重くなる。緩んだ途端にこれだ。いけしゃあしゃあと、土屋は左手の指を二本立てる。


「候補が二つあって迷ってて。どっちがいいと思う? 健全で学生らしい図書館でのお勉強会デートか、」


 にやりと笑う。唇の端に、意地の悪い男の子みたいな稚気がある。もっとも、可愛げはゼロだけど。


「ちょっぴり大人な、お家デート。草野さん、どっちのほうが気に入るかな?」


「…………なに、何が言いたいわけ」


「そのままだけど。草野さんはどっちが気に入るか、って聞いてるんだよ。親友代表の水谷に」


「そんなの、」


 知ったこっちゃない。でも、答えなら決まってる。

 お家デートなんて冗談じゃない、と言い掛けて、色の濃い瞳と視線が交錯する。それで分かった。分かってしまった。

 前回と同じだ。

 。彼女の目は、雄弁にそう告げていた。

 自宅。私はまだ、よもぎの家を訪れたことはない。その逆もだ。先を越されるだけで腹立たしいのに、その相手が土屋琥珀ならどうなるか。

 雫から聞き、本人が肯定した数々の悪評が脳裏を飛び交う。

 土屋は、夜の街の住人で。

 告白したのは、よもぎの方で。

 土屋は、よもぎの胸を触りたいとか言っていて。

 私たちは高校生で。

 どっちかの部屋で。

 なんだかもう嫌な想像しか働かなかった。

 こいつは絶対触る。多分、揉む。それだけで済むかどうかも怪しい。そして私の中の独占欲は、それをけして許さない。

 だから、選択肢なんてありはしなかった。


「……よもぎ、理数系が苦手だから。教えてあげて」


「ふうん。イメージ通りでかわいいね」


 それで? 視線が先を促す。屈辱に頬が紅潮した。吐き捨てるように、続ける。


「……他人の家に興味があるなら、うち、来れば」


「違う、違う」


 土屋の目が細まり、口の端が持ち上がった。清楚そのものの黒髪が肩を滑り、露わになった耳朶にピアスが光る。途端に、笑顔が禍々しさを帯びた。

 腹黒悪魔、という単語が脳裏に浮かぶ。


「まだなんかあるの」


「だから、私はどっちでもいいんだってば。自分の立場、弁えてくれる?」


 この女いつか泣かす。

 胃の中でぐつぐつと憎悪を煮込みながら、私は半ばやけになって言葉を紡いだ。


「どうかっ! 私の! 家に、遊びに来て、ください……」


「お願いします、は?」


「…………オネガイシマス」


「オーケイ」


 土屋が私の耳に顔を寄せて、こしょこしょと囁いた。


「誘ったの、水谷だからね」


「っ、いやならっ、」


「あれ、断っていいんだ?」


「…………それは、」


 言葉が詰まる。私は、折れそうなくらい強く鉛筆を握り締めた。手の中で、2Bのそれがぎしぎしと軋む。

 本当に意味が分からない。仲良くない相手の家に行って何が楽しいんだ。それとも、誰でもいいのか。そういうものなのか。

 悔し紛れに、吐き捨てた。


「……あんた、女なら誰でもいいわけ?」


 ぶはっ。いきなり土屋が噴き出す。なんでだ。


「ぜんぜん笑いごとじゃないんだけど」


「いや、なんか台詞がテンプレ過ぎて、やばい、あはっ」


 あははっ。俯いて肩を震わせている。意外な気がした。土屋も、こんな風に笑うのか。いつも能面みたいな表情をしているくせに。

 綻んだ彼女の顔は、百万歩くらい譲れば、子供っぽくて、透明感があると言えなくも無かった。

 しばらくひいひいしてから、ようやく顔を上げる。


「水谷は特別だよ」


「は?」


「めっちゃ苛めがいがあるから」


 決めた。

 絶対、ぜっっったい泣かす。いつか絶対───いつか。

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