路傍の石
第11話
目覚まし時計が鳴っている。
地獄でも、ちゃんと夜は明けるらしい。のろのろと支度をして、ふらふら学校へ向かった。電車から眺める東京湾は、今日も朝日を浴びて煌めいていた。
「あ。おはよう」
「げ」
下足箱で、黒髪の女にエンカウントした。昨日の悪夢がフラッシュバックして、革靴を持つ手が瞬時に強張る。
土屋は軽薄に笑った。
「げ、って。そんなに警戒しなくても」
「するに決まってんでしょ」
私が猫なら、全身の毛が逆立っているはずだ。
指先が、無意識に唇へ向かいそうになる。ぎゅっと強く手を握った。こいつに何かを意識している姿を見せるなんて、屈辱以外の何ものでもない。
「ふうん、そう。ま、いいけどね」
「…………」
「あれ、無視?」
正面だけを見て、手早く革靴を仕舞って、室内履きの踵を指で整える。当然、彼女のことなんて待ちはしない。
一度だけ、こっそりと肩越しに振り返った。土屋は、髪に絡む桜の花弁を指で摘んでいた。そういう仕草のひとつひとつが、冗談みたいに絵になっている。
じゃなくて。
なんで普通に話しかけて来たんだ。イカレてんのか。そう思った。
†
一限目から体育だった。更衣室でジャージに着替えて、体育館へ向かう。先週から、バドミントンの授業が始まった。準備体操を終え、各々がラケットを手に取る。
「今日はダブルスやるから。ペア組んで」
先生が両手を打ち合わせた。それを合図に、一組、二組とペアが出来ていく。いつもの私なら、真っ先によもぎを探す。けれど今日は、正直顔を合わせづらい。合わせないわけにはいかないけれど、せめて朝イチくらいは、と思う。
「鈴奈、組もう」
「え、あたし? いやいいけど」
バスケ部の友人が、自分の顔を指で指す。その視線が、ささっとよもぎを探した。小柄な彼女が、背を伸ばして囁く。
「なに。もしかして、喧嘩?」
「別に、そういうんじゃないけど」
「なんだ、つまんない」
「なんだと」
鈴奈は、私が軽く握りこぶしを突き出すと、嬉しそうに受け止めた。垣間見える八重歯が可愛らしい。
じゃれあっている私を見つけて寄ってきたよもぎが、ぷうと頬を膨らませた。丸っこい頬が、さらに丸くなる。
「蓮花、今日は鈴奈と組むの? えー」
「……まあ、たまにはいいでしょ」
「いいけどー」
よもぎは愛嬌があって社交的だから、どのグループの子とも仲が良い。すぐに別の相手を見つけて、その子とペアを組んでいた。そっと胸を撫でおろして、鈴奈とコートの隅へ向かう。
視界の端に、墨汁みたいな色の髪が映った。土屋も、別のグループの女子と組んでいた。
コートの端に座って、試合の順番を待つ。
二面あるコートの片方では、ジャージの前を全開にしたよもぎが、ぴょんぴょんと跳んだり跳ねたりしていた。あの子は道具を使うスポーツ全般がさっぱりだ。
そしてもう一面では、土屋がラケットを構えていた。ゴムで括った髪が、ステップの度に左右へ揺れている。
何の感慨もなく、ポニテだ、と思った。不穏なピアスの煌めきは見てとれない。髪を結ぶ日は、外しているのかもしれない。
膝を抱えた鈴奈が、ほう、とため息をつく。
「美人だよねえ」
どきりとした。
「な、何の話?」
「土屋さん。みっちー、ガン見してたじゃん」
しまった、と思った。そこまで露骨に見ていたつもりは無いのに。
「まあ、見ちゃうよね。目の保養になる顔だ、あれは」
「別に、そういうんじゃないし」
顔が良いのは認めるけれど、それだけだ。
「またまた。照れなくてもいいじゃん。いや分かるよー、あたしもお友達になりたい」
「やめときなよ」
「え、何で?」
性格最悪の変態だから。とは言えない。
「……あいつ、色々あるでしょ。噂」
「あー。まあ、仕方ないね。あれだけ美人だと。よもちゃんと違って、立ち回りが上手い訳でもないし」
立ち回り、か。よもぎは、女子に対してはあざといくらいに愛想が良い。その反面、男子には原則塩対応だ。これが逆なら、相当嫌われていただろう。
鈴奈が肩をすくめる。
「ま、でも、噂は噂っしょ」
「本当だよ。本人が言ってたから」
言ってしまってから、後悔の棘がちくりと刺さった。これじゃ、ほとんど陰口だ。でも、口にした言葉は呑み込めない。
それに、自業自得だ。
鈴奈が目を見開く。
「まじ? ていうか、いつの間にそんな仲良くなったの」
「仲良くなってないから」
「よもちゃんに続いて土屋さんもとか、ちょっとやり過ぎでしょみっちー。独占禁止法って知ってる?」
「知らない」
いや知っているけども。
「えー、ホントのホントだったら、あたし結構ショックだなー……」
そんなやりとりをしているところに、プラスチックのシャトルが転がってきた。ワックスで磨かれたフローリングの先で、土屋がラケットを上げている。鈴奈が肘で私を小突いた。
「ほら、返してきてあげなよ」
「なんで私が!」
「仲良くなったんでしょ?」
「断固として違う」
そうは言っても、シャトルは私のシューズの脇にある。落ちたそれと鈴奈の顔を交互に眺めてから、ため息をついて立ち上がった。
「……どーぞ」
「どうも」
よっぽど投げつけてやろうかと思ったが、人目があり過ぎる。ので、普通にシャトルを差し出した。受け取った土屋の視線が、やけに念入りに私の全身を上下する。
「な、何?」
「別に。そう言えば、水谷のジャージ姿って新鮮だなって」
それだけ言って、真っ黒な尻尾を揺らしコートへと戻っていく。
なんなの。自分の首から下を見直すが、おかしな点はない。皆と同じ、鮮やかに青いジャージだ。
「お疲れ」
「シャトル渡しただけじゃん」
中断していた試合が、土屋のサーブで再開した。
一打、二打とラリーが続く。互角の展開だった。相手ダブルスの片割れは確か、バドミントン部だったはず。あの女、細い身体をしているくせに運動神経まで良いらしい。
顔が良くて特待生で、スポーツまで出来て、よもぎと男女、じゃない女女? の関係で。何もかもを持っているような奴。本当に、気に食わない。
体育座りのまま、ミスれミスれ、と呪いを送る。
軽快に行き交うシャトルが、ふわりと浮いた。相手のミスショットだ。違うそっちじゃない。
「あ」
土屋が、両足で空を跳んだ。
アラビア数字の「1」みたいに真っ直ぐな姿勢から、ラケットを振り下ろす。
矢のようなジャンプスマッシュが、相手コートに突き刺さった。騒めきが、コートの内外から湧き起こる。
「ひゅーっ」
鈴奈が口笛の真似をした。
「土屋さん、かっけー」
「……どこが」
「みっちー、なんか言った?」
「別に」
不意に土屋と目が合った。
片手を持ち上げて、ちょいちょいと一点を指さす。
その誘導に従って私は、よせばいいのにもう一面のコートを見てしまった。そこでは、
「ちょっとよもちゃん! ぼーっとし過ぎ!」
「わあ! ご、ごめんね!」
コートに立つよもぎが、何故かぽうっと頬を上気させていた。
視線を戻すと、薄ら笑いを浮かべた土屋と目が合う。
───本当に、むかつく!
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