第10話


 呼び捨てされたことにも、一瞬気が付かなかった。言っていることの意味が分からない。本当に分からない。

 私は今、何を要求された?


「ごめん、意味分かんない」


「そう?」


 髪に絡まる桜の残滓を振り払って、土屋が近づいてくる。敵対者の距離から、友人のパーソナルスペースを踏み越えて、更にその内側まで。

 ふと気づいた。垂れた髪をかけた耳。そこに、きらりとピアスが光っている。

 それも一つじゃない。三つだ。

 耳朶に二つと、軟骨の隙間に一つ。

 やっぱりこの女、清楚キャラなんかじゃない。そう見せかけているだけの、腹黒悪魔だ。


「本当に、わからない?」


 悪魔の囁きが、鼓膜に触れた。耳の穴に湿った吐息が侵入してくる。


「私は草野さんに触りたい。水谷は触って欲しくない。そうだよね? なら、水谷が責任持って、草野さんの代わりをするべきじゃないかな?」


 私が、よもぎの代わり。

 代わりって何の。

 まさか、

 好きでも何でもないっていうかむしろ、私からよもぎを奪おうとしている、この、目下、世界で一番憎らしい女と?

 答え合わせのように、土屋の人差し指が私の左胸を突いた。カッと頬が熱を帯びる。


「ば、───馬っ鹿じゃないの!」


「そう? 別に嫌なら、それでもいいけど。でも、そうだね」


 身体を離した土屋が、僅かに骨張った親指で、自らの下唇を撫でた。淡い桜色のリップグロスが、昼下がりの光を反射する。


「私、この後草野さんと待ち合わせしてるんだけど。今日は少し、口寂しい気分なんだよね」


「───は?」


「例えばさ。正門を出て右方向に進んだ先にある親水公園、知ってる? あそこの藤棚の下とか、けっこう良い雰囲気だと思わない? 花も咲き始めたし、駅とは逆方向で、人も来ないし。あ。そういえば草野さんって、らしいよ。知ってた?」


「……何の話?」


「わからない? そんなわけ無いよね。特待生わたしほどじゃないけど、水谷も成績いいもんね」


 土屋の目が、挑発のように煌めく。


「水谷、キスしてよ。嫌だっていうなら、私が草野さんの初めてを貰うから」


 電流が走ったみたいに、脳が痺れた。

 視線が勝手に土屋の顔へ向く。嘘くさいほど深い黒色をしたサラサラの前髪。丁寧に整えられた眉と睫毛。黒目がちの瞳。滑らかな頬と、ブルーベースの白い肌。鈍く輝くピアス。それから。

 それから、つやつやと光る、小さな唇。


「やだ」


「あ、そう。じゃあ、私が草野さんとキスしてもいい?」


「それも、やだ」


「やだやだばっかりじゃ話になんないね。どうする? 私はどっちでもいいけど。水谷でも、草野さんでも」


 目を閉じた私の網膜に、あの文化祭の日のよもぎの笑顔が写った。水谷さんの声、すごくきれいだね。うち、好きになっちゃいそう。そう言った彼女の笑顔は、今振り返っても正直あざとくて、でもそれだけに飛びきり可愛くて。

 天使みたいだった。

 右の手首に触れる。友情の証だと言って、彼女がくれたミサンガの感触を確かめる。

 これは裏切りだ。友人の資格を喪う、致命的な背信行為だ。

 それでも、

 私は吐き気を堪えて宣言した。


「………………やる」


「何を?」


「私が、キス、するから。だから、よもぎには触らないで」


「オーケイ。それでいいよ、今日のところは」


 ずん、と胃袋のあたりが重くなる。今日は。つまり、私がよもぎの純潔を守ろうとするなら、これからもこいつの欲望を満たさなければいけないのだ。身体でも心でも、なんでも使って。

 地獄みたいな気分だった。


「じゃあ、はい」


「……わ、私からするの?」


「もちろん。そっちがお願いする立場だよね」


 最悪だ。さっきからずっと、自分史上のワーストを毎秒更新し続けている。

 特にこれから起こることは、間違いなく最悪中の最悪だ。

 土屋が、肩に掛けていたスクールリュックを下ろして、地面に置いた。私もリュックを投げ捨てる。

 出来るだけ乱暴に、彼女の二の腕を掴んだ。腹立たしいことに、この女の身体はどこもかしこも華奢さと柔らかさのバランスが神がかっている。

 土屋は、ほんの少しだけ私よりも背が高い。顎を上げる。唇に狙いを定め、ぎゅっと強く目を閉じて───顔を寄せた。


「ん」


 微かな声は、どちらが漏らしたのだろう。

 嫌いな相手と唇を合わせている嫌悪感で、背筋が粟立つ。

 呼吸のタイミングが分からなくて、息が苦しい。堪えきれなくなった涙が一滴、目尻から溢れて頬を伝う。

 これが。

 唇に当たるやわい感触が、掴んだ二の腕が、よもぎのものだったらいいのに。不意に、そんなことを思った。イルミネーションの前で繋いだ手のひらの感触が、青白いLED光に照らされた横顔が蘇る。

 あのときのよもぎは、世界で一番かわいかった。

 ばか。なんでこんなときに、あの横顔を思い出すんだ。よもぎは友達なのに。

 そんなこと考えたって、みじめになるだけなのに。

 あの甘やかな夜の美しさに比べて、この地獄みたいな現実はどうだろう。親友のことを思い浮かべながら、私の初めての口づけは、その恋人のものだった。

 全然意味が分からない。


「っ、もう、」


「まだ駄目」


 土屋の手が後頭部に回りこむ。頭を固定された私の口内に、深々と怨敵の舌が侵入した。唇の裏を、八重歯の先端を、我が物顔で這い回る。


「う、んっ」


 涙が、再び滲む。本当はこんなやつより、私の方が、ずっとずっとよもぎのことを好きなのに。あのクリスマスに、もっと違う返事をしていれば、別の今があったかもしれないのに。別の今って? いやそれどころじゃない。舌が。

 土屋は、好き放題に私の中をなぶってから、ようやく唇を離した。

 離れぎわ、清涼なミントの香りがした。悪い冗談みたいだった。

 土屋が、ぺろりと上唇を舐めて言った。


「へたっぴ。もしかして、初めてだった?」

 

「…………死ね!」


 百万回死んでくれ。

 私の罵声を気にした様子もなく、彼女は平然と紺色のスクールリュックを肩に掛ける。


「じゃ、私はこれから、草野さんと放課後デートだから」


「……約束、守ってよ」


「もちろん。手を繋ぐだけにしとく」


 なんだこのやりとり。嫌いな相手に懇願して。ファーストキスまで捧げて。声を噛み殺しながら、私は制服の袖で顔中を拭う。そうしている間も、とぷとぷ涙が溢れて止まらない。


「水谷。私のこと、嫌いになった?」


「……当たり前でしょ」


 無性によもぎに会いたかった。会って、ただ手を握って温めて欲しかった。

 今、世界で一番草野よもぎが必要なのは、水谷蓮花だという確信がある。

 でも、今から彼女は土屋琥珀とデートに行く。

 私が、世界で一番嫌いな女と手を繋ぐ。


「それはよかった」


 にたりと土屋が笑う。

 ここは一体、なんて名前の地獄だろう。そう思った。

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