第8話


「土屋琥珀」


「はい?」


「だから、土屋って奴だよ。よもぎがクッキーを上げた相手。私のクラスメイト」


 演劇部の活動が終わり、私は雫と二人で下校していた。夕暮れの歩道に、背の高い影が二筋伸びる。今年入部してきた一年生は、まだ彼女だけだ。演劇部の人気が無いわけではなく、雫の入部が早すぎる。


「土屋……」


 その名前を聞いた雫は、細い眉を寄せて何だか難しい顔をした。


「あたし、聞いたことあります。その先輩のこと」


「あっ、そ。まあ、美人だからね」


「そうじゃなくて。いえ、それもあるんですけど。その、……良くない噂があって」


 車道沿いの通学路に、私たち以外の生徒の姿はない。それでも、雫は思わせぶりに声を潜めた。


「てゆうか、先輩は知らないんですか? クラスメイトですよね?」


「いや、私そういうのあんまり興味ないから」


 むしろ、何でこいつは入学直後に上級生のゴシップネタを把握してるんだ。

 拳二つ分は背の低い、小柄な後輩を見下ろす。シュシュで括られた髪が、歩くたび、弾むように揺れていた。

 良くない噂。

 聞いておく、べきだろうか。

 噂は噂だ。あれほどの美人なら、よほど上手く立ち回らない限り、どうしても僻み嫉みは付き纏う。美しいものを見たら、誰だって、どこかに疵が無いかと目を凝らす。

 眉に唾をつけるべきかもしれない。

 でも。


「噂って、なに」


 雫は、躊躇うように唇を引き結んだ。大型のトラックが、ごうごうと車道を駆け抜けていく。

 ややあってから、素っ気なく彼女は言った。


「そんなに美人なら、想像つくんじゃないですか」


 美人。悪い噂。その二つの枕詞で、確かに次に来る言葉は見当がつく。僅かに口ごもりながら、雫は私の予想を肯定した。


「ウリとか、そういう。そういうのです。夜の駅前で見たとか、怪しいマッチングアプリやってるとか」


「……へえ」


 世界観の違いに眩暈がしそうだ。言われてみれば、いかにも男受けは良さそうに思えた。それも年上に好まれるタイプ。大人びた顔立ちと相まって、化粧次第ではあっさり成人済みで通るだろう。

 ふと、夜の街でネオンライトを浴びる土屋の姿を想像した。外見の清楚さが反転する。あの嘘くさい黒髪が、かえって卑猥なものに思えた。

 想像が、マイナス方向へ加速する。夜の街の住人が、よもぎに近づいているとすれば。そこに事件性や下心が無いと、誰が保証してくれるのか。


「……お姉ちゃん、大丈夫かな」


 私の懸念を代弁するように、雫がぼそりと呟いた。

 後輩の言葉が、嘘か本当かは分からない。

 ただ、確かめないと、と思った。よもぎは可愛いし、脇の甘いところがあるから。変なことに巻き込まれかけているなら、止めなくてはいけない。

 良識ある同級生として。

 そして、親友として。

 正直にいえば。

 この決意が、はたして純粋な友情に由来するものなのか、あるいはもっと薄暗い心の作用によるものなのか。

 もうすでに、私自身、よく分からなくなっていた。


  †


 演劇部にはお決まりの勧誘文句がある。

 人前に立つ度胸がつくよ。

 もちろん、演劇だけが度胸や勇気を育てる手段じゃない。突き詰めれば、何だって人の目を意識するようになるだろう。ただ、校舎裏で声を張り上げ、講堂の舞台に立つなかで、私に度胸らしきものが芽生えたことは確かだ。緞帳が上がる瞬間の、あの恐怖と緊張に比べれば、大抵のことは乗り越えていける。

 だから私は、もっとも直接的な道を選ぶことが出来た。


 放課後の校舎裏。

 今日は演劇部の活動が休みだから、ここに近づく生徒はほとんどいない。

 若葉の緑に染まりつつある枝垂桜を眺めながら、私は彼女を待っていた。

 土屋は、あっさりと私の呼び出しを受け入れた。

 選択授業の時間は、よもぎと教室が分かれる。私と土屋は美術、よもぎは音楽だ。その隙を狙って、私は直接土屋へ声を掛けた。


 ───放課後、校舎裏の枝垂れ桜に来て。


 大して会話もしたことがない私の言葉に、しかし彼女は何も言わず、何もかも了承済みみたいな澄まし顔で頷いた。

 脳内で繰り返したシミュレーションを、今一度確認する。ねえ、あの噂って本当? どういうつもりでよもぎに近づいたの。あの子を変なことに巻き込むつもりなら、許さないから。

 よもぎの一番は、私だから。

 息を吸って、吐く。

 四月下旬の大気は、微かに夏を予感させるような、青く湿った味がする。

 舞台に上がるときを思い出しながら、深呼吸を繰り返した。

 そして。


「お待たせ」


 ようやく、土屋琥珀がやってきた。

 この話は、ここから始まる。

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