第7話

 気がつけば月曜日だった。

 プリーツスカートの高さを調節しながら、ふと思う。日曜何してたっけ。恐ろしいことに何一つ思い出せない。昨日の水谷蓮花は、よほど虚無な一日を過ごしたようだった。

 その証拠に、登校中も、土曜日のことばかりを考えていた。道を歩いても車窓から海を眺めても、固く結ばれた手のひらが瞼の裏にちらついて仕方がない。

 だから。

 教室に着くなり、どうしても視線が彼女を追ってしまう。

 教室の左端、窓際の席に座った土屋は、見えない糸で吊るされているかのように、すっと伸びた背筋をしていた。空いている窓から吹き込む春風が、そよそよと緑の黒髪を揺らしている。

 昨日まではどうとも思わなかったその美少女っぷりが、今日はひどく気に障った。出来過ぎだ、と思う。こんな青春映画のヒロインみたいな女子高生が実在するわけがない。

 裏があるに決まってる。

 私の席は最後列の真ん中だ。私はスマホを触るふりをしながら、間違い探しをする子供みたいに、彼女の背中を睨みつけていた。



「おはよぉ、蓮花。どしたの、ぼおっとして」


 ややあって、登校してきたよもぎが、私の二の腕に軽く触れた。びくりと肩が跳ねる。首を傾げるその顔を、ついまじまじと見つめてしまった。

 けれど、どう見てもいつものよもぎだ。何も変わらない。


「どした? うちの顔になんかついてる?」


 綺麗に染まった茶髪が、ふわりと揺れる。清涼なシトラスの匂い。駅前の残像が、目の前のよもぎと重なって、苦いものがこみ上げた。


「……いや、ごめん。何でもない」


「そう? あ、一限の宿題忘れた? 見せたげようか?」


「ありがと。でも、大丈夫だから」


 それ以上は何も言わず、よもぎは私の脇を通り過ぎていった。

 ふと太腿に硬い感触が触れて、しまったと後悔する。彼女のために買った、たこ焼き型の消しゴム。完全に渡しそびれてしまった。まあ、いいか。今度渡せば。

 それより、今は土屋だ。

 よもぎの背中を目で追いかける。 

 彼女は土屋に、なんて声を掛けるのだろう。水族館、楽しかったね。次はどこへ行きたい? 遊園地とか、どう?

 二人の会話を聞き逃さないよう、私はひそかに耳をそば立てる。

 けれどよもぎは、窓際に近づきもせず、真っ直ぐに自席へ向かっていった。

 土屋には、一瞥もくれない。土屋も土屋で、ずっと手元の文庫本を読んでいる。

 なんだそれ、と思った。

 ホームルーム後も休憩時間も、二人が会話を交わすことは無かった。むしろ、互いに近づき過ぎないように気を遣っている節さえある。

 意味が分からない。

 土曜日は、あんなに親しげだったのに。

 その秘め事めいた雰囲気が、かえって私の心の柔らかい部分を擦った。あからさまな友愛とは違う、根深く仄暗いものが、二人の間にあることを暗示されているようで、ひたすら気に食わなかった。


  †


 演劇部の昼練は週二回。三〇分で弁当を片付けながら軽くミーティングを行い、もう三〇分で声出しと朗読をする。


「あめんぼ、あかいな、あいうえお」


 校舎裏の桜を目掛けて、山辺部長が声を張り上げた。いつも軽妙でよく冗談を口にする彼女の声は、大型の管楽器みたいに遠くまで響く。その声に導かれるように、私を含む演劇部員一同が唱和する。


『あめんぼ、あかいな、あいうえお』


「うきもに、こえびも、およいでる」


『うきもに、こえびも、およいでる』


 北原白秋の「五十音」。滑舌練習の定番だ。こうして声を出している間は、無心になることが出来た。


「はーい、じゃあ五分休憩挟んでホン読みするよー」


 ぱん。山辺部長が両手を打ち合わせた。空気が弛緩する。私も、校舎の外壁に背中を預けた。

 思考に空白が生まれると、すぐに影が忍び込んでくる。

 どうしてよもぎは、土屋と仲良くなったことを隠しているのだろう。

 土屋琥珀と同じクラスになったのは、この四月からだ。だから、人となりはよく分からない。分かっているのは特待生で頭が良いことと、運動もそれなり以上に熟せることくらいだ。まあ、あと、顔が良い。腹立たしいけれど、そこは認める。


「水谷先輩、ちょっといいですか?」


 あえていえば、孤高の人だ。どこのグループに所属しているかも分からない。もしかしたら、どこにも所属していないのかもしれない。私とよもぎのように、特定の誰かとコンビになっている様子もなかった。

 じゃあ男か? というと、これがそんな様子もないのだ。

 謎。謎だ。


「あれ。水谷せんぱーい」


 そんなので学校生活、やっていけるのだろうか。

 私なんかは、そう思うのだけれど。

 あれだけ顔が良いと、見える世界が違うのかもしれない。


「み、ず、た、に、せ、ん、ぱ、い?」


「うわっ。え、あ、なに?」


「なに? じゃないですよぅ。可愛い可愛い後輩を無視ですか?」


 気がつくと、雫のシュシュが目の前にあった。

 これみよがしに腰に手を当てて、憤然としている。大げさなボディランゲージと分かりやすい表情は、確かに役者向きだと思った。


「ごめん、ちょっと考え事。どうかした? ホン忘れたなら、」


「いえ。ちょっと聞きたいことがあって」


「はあ」


 聞きたいこと。

 雫の視線が、私の顔から足元までを舐めるように往復する。彼女の顔立ちは姉のよもぎによく似ているけれど、ただ一箇所、勝気そうな吊り目だけがまるで違う。その目でじっと見つめられると、なんだか心臓が騒ついた。


「今日、お姉から何か貰いました?」


「何かって、何」


「クッキー、……とか」


「いや、貰ってないけど」


 雫の眉がぴくりと動いた。


「ふぅん……そーですか……」


 何の話だ。

 クッキー? そういえば、去年のバレンタインに、よもぎがクラスで配っている姿を見かけた。私も貰ったし、雪だるま型のそれは贔屓目なしで美味しかった気がする。

 でも、今日は貰っていない。


「てっきり、水谷先輩だと思ったんですけど」


 雫の革靴が、コツコツと地面を突いた。そのテンポの速さに、わずかばかりの苛立ちを感じる。


「何の話?」


「わたし、これでも結構、人を見る目に自信あるんですよ。人相? っていうんですかね? 顔見たら人柄が大体分かるっていうか。たかが高一が何言ってんだって感じですけど。でも、水谷先輩ならまあ、いいかなって思ってたんです。悪い人じゃないっぽいですし」


 瑞々しい唇が、つんと拗ねたように突き出された。


「でもそうか、違うんだ。えー、じゃあ全然わかんないな。誰なんだろう」


「……雫。これ、何の話?」


「お姉の話ですよ」


 草野よもぎの話です。

 そう言って、雫は辺りを憚るように私の耳に顔を寄せた。まだ幼さの残る高い声が、耳朶に触れる。


「お姉。昨日、クッキー焼いてたんです。それも気合いの入った、ハートの形のアイシングクッキー。友達に持って行くからって」


 ───え?

 いや、だから私、貰ってないんだけど。


 昼練の後、私は早足で教室へ戻り、あえて土屋の席の近くを通りがかった。彼女はもう席に着いていて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 すれ違う一瞬、素早く視線を走らせる。

 机の上にあるのは、ノートと教科書だけ───いいや、まだだ。壁に貼られた時間割を確認するフリをして、振り返る。

 形容し難い熱が、頭の後ろを焼いた。

 振り返ったとき、確かに見えた。薄暗い机の中に隠された、透明なリボン付きのラッピング袋が。


 ど。

 どうしよう。

 いや、どうするもなにも無いのだけど。訊くのか? よもぎに。なんで土屋にクッキー作ってきたの、って。私の分はどこ、って。

 馬鹿か。いや馬鹿かっていうか、ちょっと違う。彼氏かよ、って感じだ。それも束縛強めの。相談されたら、そいつは止めとけって言ってしまいそうなくらいに。

 友達が、クラスメイトと二人で水族館に行って。

 手作りのアイシングクッキーを持ってきて。

 何故かその全てを秘密にしていて。

 だから何だと言われたら、それまでだ。

 別にいいじゃないか。友達に友達が増えたんだから、ちっとも悪いことじゃない。なんなら、この繋がりで学年一の美少女とも仲良くなれるかもしれない。

 いや別になりたく無いけど。

 土屋とは、何故だか致命的に合わない気がするけど。

 右斜め前の、軽く丸まった背中を見る。ゆるく波打つ髪が、ふわふわと跳ねていた。よもぎが横を向くと、その丸っこい鼻の輪郭がよく見える。


「えー、じゃあ次はこの変格活用ついてだが───……」


 古典の先生が、黒板に向き直る。そのときだった。

 よもぎの手がスカートのポケットに忍び込み、スマホを取り出した。

 机の下で、人形みたいな親指が目まぐるしく動く。考えるより先に、私の視線は土屋の方を向いた。

 予感は当たった。

 よもぎの指が止まったのとほぼ同時、土屋がブレザーのポケットに手を入れていた。

 ちりちりと胸が灼けていく音がする。

 それなのに両手は冷え切っていて、誰かに握って欲しくて堪らなかった。

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