第6話


 魔が差した、という表現が果たして正しいのだろうか。

 別に、悪事を働こうとしてる訳じゃない。駅前に友人が来ると知ったから、ちょっと様子を見に行くだけ。いや見に行くってなんだよ。ストーカーじゃあるまいし。自分で自分に突っ込みを入れるが、私の足は止まらない。

 キャップを被り直す。日差しではなく、視線を遮るために。

 だって、水族館なんて。

 そんなの、私だって一緒に行ったことがない。

 相手は誰だろう。思い当たるクラスメイトはいない。なら、図書委員の同僚? まさか、以前所属していた花園グループの誰かってことは無いだろうけど。

 そもそも水族館というのは、ただの友達と行く場所なんだろうか。

 カラオケとか、遊園地とか、カフェ併設の書店なんかとは文脈が違う。行けば楽しいのかもしれない。けれど、大勢で騒ぎたてる場所じゃない。

 例えば、それは。

 よほど気の置けない親友か、あるいは───恋人と、二人で行くような場所だ。


 宙に浮かぶ渡り廊下に出る。

 水色一色だった空に、薄墨色の雲が浮いていた。花曇りの空の下、目を細めて駅前のロータリーを睨めつける。

 幸い、私は生まれつき視力が良い。一人一人の顔が、十分に見て取れた。

 転落防止の柵に手を掛ける。

 誰。相手は誰だ。

 私の誘いを断って、一体どこの誰と遊びに行くつもりだ。

 きゅるきゅると、絞られるように胃が痛む。

 スマホを取り出して、バスの運行情報をチェックした。水族館へ向かうバスの停留所は、すぐに分かった。潮風に錆びたベンチの前に並ぶ人々の顔を、一人ずつチェックしていく。

 ベビーカーを押すお母さん。違う。

 スーツの男性。違う。

 大学生カップルの男女。違う、違う、違う。

 ひゅうひゅうと春の風が吹いて、私の頬と頭を冷ましていく。

 ふと、我に帰った。

 何やってるんだろう、私は。

 友達が、よもぎが誰と水族館に行こうが、勝手じゃないか。面倒くさい彼氏じゃあるまいし。

 ───彼氏。

 やっぱり、そうなのかな。

 風でズレたキャップの位置を直す。

 やめよう。そう思って身を起こした、その瞬間だった。

 まるで集中線でも引かれているかのように、意識がただ一人に吸い寄せられる。

 よもぎだ。

 駅構内から、私の親友が歩いてやってきた。

 その姿に、思わず息を呑む。今日の彼女は、随分と気合の入った格好をしていた。肩が露出したニットセーターに、ひざ丈のスカート。すごく可愛いし、よく似合ってもいる。

 でも。

 それは一体、誰に見せるための服なんだ。

 花咲くような笑顔で、よもぎが右手を上げた。私は固い唾を飲み込んで、その視線の先を追う。


 私の予想は外れた。

 そこにいたのは、美しい女の子だった。


 背中まで届く黒髪が、風にはためいている。春めく若葉色のカーディガンを肩に掛けた、クラシカルなセットアップが恐ろしいほど決まっていた。背筋の伸びた立ち姿は凛としていて、よもぎよりも拳一つ分ほど背が高い。私と、ほとんど同じくらいだ。

 私は彼女の名前を知っていた。元々有名人だし、何より今年から同じクラスになったから。

 土屋。

 土屋琥珀。

 美の基準は星の数ほどあるだろうけれど、私の中でただひとつ正解を求めるならば、きっとそれは、彼女に似た形をしている。

 そういうことを、誰もが歯軋りしながら認めざるを得ないのが、土屋琥珀という奴だった。

 その嫌味なくらいに綺麗な顔が、雪解け跡に咲いた花みたいに綻ぶ。なにあれ。あいつ、教室ではいつも薄っぺらい能面みたいな顔をしているくせに。

 私は深く息を吐き出しながら、キャップのつばの長さを指先で確かめて、おそるおそるよもぎの顔を見た。

 よもぎもまた、微笑んでいた。身体を抱えるように口元に手を当てるのは、甘ったれで寂しがりの彼女が、全力で人に愛嬌を振り撒くときの仕草だ。彼女が一番可愛くなるポーズ。

 土屋の横によもぎが収まって、二人でバス待ちの列に加わる。

 ステンレスの柵を掴む指先に、ぎゅっと力が篭った。

 ───な。


「なんで?」


 思わず声が出た。我ながらそれがあまりに惨めっぽくて、少しだけ笑ってしまう。

 だって、全然そんな伏線無かったじゃないか。どこにそんな文脈があったんだ。クラスでもほとんど会話してなかっただろ。

 いや別によもぎが誰と仲良くしていたって、そこに口を出す権利なんて、ないけど。私だけじゃなくて、そんな権利、誰にもありはしないけど。

 でもやっぱり、黒い泥みたいな塊が、胃袋の辺りにずしんと堆積している。

 いっそ彼氏だったほうが、まだ納得できたかもしれない。

 呼吸が浅くて動悸がする。いやいや、どんだけ動揺してるんだ、私。

 ロータリーに、都バスが走り込んでくる。

 土屋がよもぎの手を取った。おい。

 よもぎが俯いて、はにかむように頬を淡く染める。おいおい。

 無駄に優秀な私の網膜が、繋がった二人の手の行方を捉えた。土屋のカーディガンの右ポケット。

 おいおいおい。

 水族館行きのバスが停車する。

 不意に、土屋が顔を上げた。


「っ⁉︎」


 心音が跳ね上がる。

 一瞬、土屋のくろぐろとした瞳が、空中回廊にいる私を捉えた気がした。その形の良い唇が、僅かに吊り上がったように見えた。

 今、嗤われた?

 違う。気のせいだ。高さがあるし、キャップだって被っている。さして親しくもない私の存在に、気がつくわけがない。

 視線を感じたのは、ほんの一瞬だった。

 よもぎと土屋と、その他の有象無象を飲み込んだバスが走り去る。

 私は。

 私はしばらくの間、呆然と、無人の停留所を見下ろしていた。


  †


 這うような足取りで家路についた。

 リビングのダイニングテーブルに、ラップされたオムライスの皿が置いてあった。ソファに寝転がってスマホをたぷたぷしていた妹が、「それお昼ご飯。食べないなら晩御飯になるって」と教えてくれた。

 酢昆布の箱を投げて、椅子を引く。

 皿をレンジで温めるかひととき迷って、結局、やめた。わずかな一手間さえ億劫だった。

 薄焼き卵の膜にスプーンを突き刺して、冷めたチキンライスを抉り取る。

 頭の中で、さっき見た光景が反響していた。よもぎが見せた、屈託の無い笑顔。繋がれたまま、ポケットに仕舞われた手。水族館行きのバス。

 スマホを取り出して、海浜美浜の水族館を検索した。公式サイトより先に、まとめサイトの見出しが目に飛び込んでくる。『アクアランド海浜美浜水族館を三倍楽しめるコースを紹介!』。『海浜美浜のデートスポット十選』。『アクアランド海浜美浜は最強のデートスポット⁉︎』。

 心臓がきゅっと軋む。

 別に、よもぎにどんな友達がいたって構わない。私が澱んでいるのはそれが理由じゃない。私よりもその子を優先した、という事実に腹が立っているだけだ。そのはずだ。きっとそう。

 多分、そう。

 そうでなければ、私が、水谷蓮花があまりにもみじめになってしまう。もう、世界が手の届く範囲で完結していた小学生ではないのだ。家族がいて、友達がいて、それだけが全てだったあの頃とは違うのだ。

 よもぎにはよもぎの世界があって、私の知らない居場所だってある。

 そんなこと、分かっているけれど。

 でも、手、繋いでたな。

 ポケットの中では、恋人繋ぎをしていたんだろうか。私と過ごした、あのクリスマスみたいに。

 思考を止めようとして、「でも」という逆接の接続詞が脳裏に浮かんで止まらない。なんだこれ。私、そんなに面倒くさい人間だったっけ。


「お姉ちゃん、食欲ない───うわっ、どしたの⁉︎ ケチャップ掛けすぎた?」


「……え?」


 いつの間にか近寄っていた妹が、こわごわと自分の目尻の辺りを指でつつく。

 自分の顔の、同じ場所に触れた。熱を持った雫が一滴、指先を伝って流れる。

 友達が、他の友達と仲良くするのが嫌で泣く?

 本当に、子供みたいだ。そう思った。

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