第5話
桜の見頃は驚くほど駆け足で去っていく。
私は他の二年生たちと一緒になって、演劇部のビラを配ったり、教室を回って小芝居をしていた。
雫のように入学式前から肚を決めている一部を除けば、一年生が部活を決めるのはこれからだ。少しでも興味がありそうな輩がいれば、とっ捕まえて、部室に引き摺り込むのが私たちの役目だった。あとは諸先輩のトーク力次第である。
その一環で、小道具が必要になった。
今回の演目は、スリラー風コメディだ。痴情のもつれをコミカルに表現し、犯人の女が「この泥棒猫!」の決め台詞と共に恋人の腹へ包丁を突き刺す。
その犯人役が、私だった。
当然、本物の包丁は使えない。なので、自作しなくてはいけない。ライオンボードをベースに、アルミフォイルとラッカー塗料を組み合わせれば、かなりそれっぽいものが作れる。折角の殺人犯役だ。どうせなら、細部までこだわりたかった。
「そういうわけで、土曜に買い物行かない? ついでにモールも見て回りたいし」
そう言って私が誘うと、よもぎは何だか困ったように眉を寄せた。スマホを取り出して、たぷたぷと何かを確認する。それから、ちいさな指先を祈るように合わせた。
「ごめん、その日は家の予定があるんだぁ」
「そっか。いや、いいよ。部活の用事だし」
私は身体の前でひらひらと手を振った。気にしていないのは本当だ。ただ、少しだけ意外だった。よもぎは小物や文房具の類を眺めるのが好きで、この手の誘いが断われたことはほとんど無かったから。
まあ、家族との予定なら仕方がないか。
「ほんと、ごめんね」
手を合わせて片目を瞑る。出会った頃からいつも身ぎれいにしている彼女だけれど、最近、何だか磨きがかかっている気がする。これ以上可愛くなってどうするつもりなんだろう。
私は彼女の机に転がる桜餅型の消しゴムをチラッと見て、努めて軽い調子で言った。
「面白い消しゴムがあったら買ってくるよ。好きでしょ、そういうの」
「……うん」
明るい色をした髪の左右をくしゃりと掴んで、よもぎは何かもの言いたげだった。淡い色のリップグロスを塗った唇が、微かに開閉している。
後から思えば、きっと彼女は迷っていたのだ。私に、友達の水谷蓮花に、とても大切なことを相談すべきかどうかを。
もしもこのとき、私がその苦悩を察して、一歩踏み込んでいたらどうなっただろう。もしかしたら、泥沼に沈むことを避けられたかもしれないし、あるいはすでに手遅れだったかもしれない。
いずれにせよ私は、そんなことは露知らず、今日もよもぎは可愛いな、などと間の抜けたことを考えていた。
だからあっさり、彼女の席を離れて、次の授業の準備を始めたりして。
本当に、間抜けなことこの上ない。
†
そして土曜日がやってきた。
「お姉ちゃん、どっか行くのー?」
「百均」
「あやめ、酢昆布たべたい」
渋いな、妹よ。
私は小学生の妹の頭をぺしぺし叩いた後、だぼだぼのTシャツにジーンズを履き、スニーカーを引っ掛けて家を出た。
四月も半ばを過ぎて、ぬるま湯のような春の大気の向こうから、そろそろと夏の気配が近づいているのを感じる。きっと今年も暑くなるのだろう。水色の空から降る真っ白な陽射しに、フチのある帽子を被ってきて正解だと思った。
美浜大学附属高校は、東西を二つの大学キャンパスに挟まれた学園都市の中にある。最寄り駅の海浜美浜駅は、近場では一番の繁華街だ。大抵の用事は、駅の東側にある中規模ショッピングモールで済んでしまう。それだけではない。洒落たレストランも、イルカショーをやっている水族館もある。
実家からは電車に乗る必要があるけれど、定期があるから交通費はかからない。山手線圏内に出るよりはよっぽど近いし、何より安上がりだ。よもぎと遊ぶときも、大概、海浜美浜駅の近くだった。
『間もなく電車が参ります───……』
いつもと同じ路線に私服で乗り込むとき、いまだに少し胸が高鳴る。電車のホームドアに背中を預けて、加速していく景色を眺めた。
海浜美浜は、名前のとおり臨海都市だ。こうして電車に乗れば、窓の向こうには東京湾が見える。ゆるやかに波立つ濃紺の水面は、午前の光を乱反射してきらきらと煌めいていた。
ホームに着くと、どっと人が降車した。ショッピングモールは、駅と直結している。改札口に鎮座する真鍮のイルカ像の脇を抜けて、宙に架かる渡り廊下を進む。
目当ての買い物は、すぐに済んだ。
メジャーな百均チェーンでライオンボードとアルミフォイルを、文具店でたこ焼きの形をした消しゴムを購入した。いつかの思い出が蘇る。喜んでくれるといいのだけど。
ひと息つこうと、自販機で缶のメロンソーダを買った。
フードコートの端で、テナントに入っている店を順繰りに眺める。何か食べちゃおうかな。でもお金がな。
そのとき、スマホが振動した。
インカメラが私の顔を認識して、ロックを解除する。メッセージではなく、アプリを使った無料電話だ。
発信元は、草野雫。
液晶画面の上に指を滑らせる。
「どしたの?」
『あっ、先輩こんにちわ! あの、実はお姉がウチにスマホ忘れちゃって』
声の背後から、トントンと包丁で何かを切るような音が聞こえた。フードコートの柱時計を見ると、もうすぐ短針が十一時を示すころだ。
「あの、何の話?」
私の困惑をよそに、雫はつらつらと話を続ける。
『それで、家に忘れてるよーってのと、あと晩ご飯どうするのーって』
「ちょっと待って。あのさ雫、だからなんの話?」
スマホの向こうで、雫が沈黙した。子猫みたいな声が、あたりを憚るように潜められる。自宅なのだろうから、気にすることも無いはずなのに。
『……あの、先輩。もしかして、今、お姉と一緒じゃないんですか?』
「いや、違うよ」
『あれ? や、なんかお洒落して嬉しそうに出かけて行ったんで、てっきり、先輩と一緒なのかと思ったんですけど』
「……今日は、家族の用事だって聞いてたけど」
『え? パパもママも、普通にのんびりしてますよ?』
どくりと心臓が鳴った。
心臓の下のあたりから、ぞわぞわと嫌な感覚が這いあがってくる。他の友達? 別によもぎは孤立しているわけじゃないから、仲の良いクラスメイトなら何人か思いつく。
けれど、わざわざ休日に遊びに行くとなれば話は別だ。いるのか? よもぎに。
少なくとも私は知らない。
なにより、どうして私に嘘をついたのか。
内心の動揺を悟られないよう、私はできるだけ自然に聞こえるように尋ねた。
「……他の友達といるんでしょ。どこに行くか、言ってた?」
『なんだっけ。あ、水族館って言ってましたよ。海浜美浜の。ウチからなら、そろそろ駅に着く頃じゃないですかね』
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