第3話
「そういえば、妹がここ受験したんだ」
海浜美浜の街をイルミネーションが彩り始めた十二月のある日、思い出したようによもぎが言った。私は目を丸くした。何もかもが初耳だったからだ。
紅葉が散る頃には、私とよもぎはすっかりペアになっていた。それでも、知らないことはまだ沢山ある。
「妹?」
「うん」
「よもぎ、妹いたの?」
「いたんだよこれが。一歳下のコナマイキな妹が」
「へー……」
全く聞いたことが無かった。いや、私が覚えていないだけで、何かの折に聞いていたのかもしれない。ただ、美浜大附を受験するというのは間違いなく初耳だ。
それにしたって、よもぎは「お姉ちゃん」なんてキャラじゃない。末の妹か、一人っ子の愛されオーラが全身から迸っている。家だと妹からプリンを取り上げたりするのだろうか。まるで想像がつかなかった。
「中学から演劇部だったから、劇部に入るかも。受かったら、だけどね」
「へえ」
「そのときは宜しくね、水谷せーんぱい」
言葉の響きがくすぐったい。照れを誤魔化すべく無表情になった私の頬を、よもぎが摘んだ。地味に痛い。
「いひゃい。はなひて」
「ふふー。ごめんごめん、ついね」
カーディガンから飛び出たよもぎの指先が、私の頬をくるくると撫でる。いたいのいたいの、飛んでけ。自分でやっておいて、随分と手前勝手なことを言う。
でも、悪い気はしなかった。
全部が全部、痛みのせいだとは言い切れないくらい、触れられた頬が火照っている。
†
十二月二十四日の放課後に、私たちは学校の近くにあるショッピングモールへ出かけた。
恋人のいない私たちは幾つかのクリスマス商品を冷やかし、食べてもいないケーキの品評会を開催し、飛び込んだカラオケで奮発して二日間限定の骨つき鶏もも肉に齧り付いた。どれもこれも、よもぎがいなければ出来ないことだった。彼女に誘われなければ、私は一人、部屋でゲームでもしていただろう。
脂のついた親指をぺろりと舐めながら、よもぎがしみじみとぼやく。
「ここでケーキじゃなくて肉へ行っちゃうから、うちは恋人ができないのかなぁ」
「よもぎ、恋人欲しかったの?」
「んー、そりゃまあ。でも、中々難しいんだ」
いや嘘だろ。
もしも本当に、草野よもぎでさえ恋愛の成就が難しいなら、世の中の女子高生の大半は幸福な恋を諦めなくてはいけないはずだ。
というか。
見た目も仕草も性格も何もかも可愛らしい彼女が、これまで幾度となく告白されていることくらい、噂話にうとい私だって知っている。
「そういうの、興味無いんだって思ってた」
「そういう訳じゃないよ。ただ、」
「ただ?」
よもぎは私の目をちらりと見て、ふっと笑った。
「何でもない! ね。蓮花は、うちに恋人が出来たら、寂しいって思う?」
タイツを80デニールに変えた頃から、よもぎは私を下の名前で呼ぶようになっていた。名字やあだ名で呼ばれることはあっても、家族以外で私を「蓮花」と呼ぶのはただ一人、彼女だけだ。
それなのに、思えば恋バナの類は全くしてこなかった。
珍しいよもぎの問いかけに、まだ何も知らず、自分の心にさえ無自覚だった私は、たいへん無責任に答えた。
「まさか。嬉しいって思うよ。よもぎなら、きっと素敵な人が見つかるよ」
「……ん、ありがと」
頷く彼女の目尻に、透明な淋しさが滲んだ気がした。間違えたかもしれない、と直感が囁く。けれど、他にどんな返事があるだろう。
でも。
結局のところ、私の直感は嫌になるほど的中していた。この安いポップソングみたいに凡庸で、何の個性もオリジナリティもない超テンプレ回答を、私は後に死ぬほど後悔することになる。
それも、けして遠くない未来に。
夕方にはカラオケを出て、駅前のイルミネーションを見に行った。黄昏時の藍色の空でも、LEDの強い光は充分映える。
「これ、あったかいよ」
「うちの耳もね」
私の首元には、よもぎのプレゼントが巻かれている。水色をベースにした、格子模様のマフラー。これさえあれば、凍えるような夜風だって怖くない。
よもぎの耳は、私がプレゼントしたイヤーマフが守っている。小さなうさ耳がついた、可愛いやつだ。とてもよく似合っている、と思う。
「ちょっと失礼」
アースカラーのコートのポケットに、よもぎの手が侵入してきた。狭い空間で、私の手は容易く捕獲される。冬の外気に晒されていた彼女の手は、ひどく冷たかった。
「蓮花の手もあったかい」
「私は冷たいんだけど」
「うりゃうりゃー」
指と指の合間に、冷たい指が分け入ってくる。最終的に、よもぎの手のひらと私のそれがしっかりと密着した。心臓が跳ねる。
いやこれって。
恋人繋ぎ、ですけど。
いいのかな。いいのか。悪いことはない、はずだ。
学校指定のダッフルコートで温め続けた手には、汗が滲んでいる。そこによもぎの体温が混ざって、更なる熱を生んだ。吐く息が白く煙る。気恥ずかしさが脳を灼き、思わず俯いてしまう。
あれ、友達ってこんな感じだったっけ。クリスマスイブに、駅前でイルミネーションを待ちわびながら、これくらいの距離感でいることが、友人関係の正解なんだっけ。
駅前では、据え付けられたツリーを囲むように、何組かのカップルが集まっていた。皆、点灯の瞬間を待ち侘びているのだ。
私が手のひらの感触にばかり気を取られていると、よもぎが小さく叫んだ。
「点いた!」
ツリーに、青と白、二色の電灯が灯っていく。
人工の光に照らされたよもぎの肌は、白く輝いていた。多分、私は見惚れていたのだと思う。LED光なんかよりもずっと。
心の中で、もう一度、彼女の質問を振り返る。
───うちに恋人が出来たら、寂しいって思う?
訂正しよう。さっきの答えは、大間違いだ。
そんなの寂しいに決まってる。
よもぎがいたから、私はこうしてクリスマスツリーの光を浴びている。カラオケで限定のチキンを食べられたのも、首周りがとても暖かいのも、教室で過ごす毎分毎秒が輝いているのも、全部彼女のお陰だ。
恋人ができてしまったら、きっともう、よもぎは私の手を引いてはくれない。
想像するだけで寂しかった。
でも、それだけじゃない。その程度で収まるわけがない。
青臭い寂しさなんかよりもずっと強烈な、仄暗い感情を抱くのだろうと、そういう予感がある。
誰の心にも怪物が住む。緑の目をしたそいつは、名を「嫉妬」という。
手汗が滲む。私は俯いて、革靴の爪先を見つめる。
冬が過ぎ、春を迎えても、その予感は強まるばかりだった。
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