第2話
草野よもぎは、ころころと表情の変わるやつだった。
文化祭の出店なんて、冷凍食品を温めて、ソースだのマヨネーズだのチョコソースだの生クリームだのを掛けただけだ。それなのに彼女は、「文化祭のしおり」の案内図を見詰めて、きらきらと目を輝かせている。
「よもぎさん、なに食べるの?」
「とりあえず、たこ焼きかなぁ」
「普通のと、ロシアンがあるけど」
冊子を横から覗き込む。シャンプーだろうか。明るい色の茶髪からは、シトラス系の良い匂いがした。
こてんとよもぎの首が傾く。私のほうに。やけに距離感の近い子だな、と思った。
「ロシアン? ロシア風ってこと?」
「いや違うでしょ。外れが入ってるの。辛子とか、ワサビとか」
「楽しそう! そっちにしよ」
食べようぜえ、とずんずん渡り廊下を進んでいく。たこ焼きを出しているのは、二年生のクラスだ。
廊下は生徒と保護者、それから見学の中学生でごった返している。
小さな背中を見失わないよう、追いかけて横に並んだ。
「水谷さんは、何かある? 食べたいものとか、行きたい出店とか」
「……別に」
首を横に振る。昔から、「何がしたい?」という質問が苦手だ。あれがしたいこれがしたい、という欲がない。
何かを選ぶことも得意じゃない。やりたいことがないから、夏休みの初日から宿題を紐解いたりするのだ。
「じゃあ、うちが楽しませてあげるねっ」
だから、衒いもなくそんなことを言える彼女のことが、少しだけ眩しい。
飲食店の評価サイトみたいに、文化祭の出店にも点数が付いていたらいいのに。そうしたら、正解だけを選んで進んでいけるのに。そう思った。
教室の入口から覗いた限り、ロシアンたこ焼きの出店は、それなりに盛況だった。よもぎが、文化祭の開始時に配られた金券を千切って列に並ぶ。
廊下で待っていると、別のクラスメイトが目の前を通りがかった。部活の出店で使うのか、両手で大きなダンボール箱を抱えている。
「みっちーじゃん。何してんの」
「ツレがたこ焼き買ってるから、待ってる」
「劇部の子?」
「いや、草野さん」
「草野さん」
クラスメイトが怪訝な顔をした。
「仲、良かったっけ?」
「いや、別に……なんか、こう、流れで」
「へえー。草野さんて、いつもは花園さんとかのグループだよね」
私の数少ない友人は、ダンボールを抱えたまま、器用に身体を傾けて教室を覗き込む。私もつられて目で追いかける。ちょうど、よもぎがプラスチックの容器を受け取ったところだった。あちあち、と唇が動いている。
「じゃ、あたし行くわ」
「ん」
えっほえっほと、友人は廊下を歩いていく。彼女は女子バスケ部のホープだ。女バスは、確か中庭でバナナジュースを売っているはず。であれば、箱の中身はバナナだろうか。
「おまたせぇ」
よもぎが、たこ焼きのパックを左右の手に持ち替えながらやってきた。あれだ。反復横跳びみたい。よほど熱いのか、あるいは手の皮が薄いのか。
なんとなく、先ほど触れた手のひらの感触を思い出す。
「ねえ、見てこれ。水谷さん、どう思う?」
「……あー」
二段になって並んだ、冷凍たこ焼き。その、中央辺りの一粒に、ちょこんと黄色い辛子が付着していた。皮の一部も、分かりやすく破けている。スポイトか何かを刺して、辛子を入れたのだろう。
「これじゃあ、趣旨が変わるね」
「……うん、ごめんね」
ハズレが見えていてはゲームにならない。ただの罰ゲームだ。
よもぎの、クリーム色のカーディガンに包まれた細い肩が落ちる。しょぼん、という擬音が聞こえた気がした。別に、彼女の責任では無いのに。文化祭のクオリティなんてこんなものだ。
なのに、ただでさえ小さな彼女がそうしていると、見ているこっちのほうが悲しくなる。
「これ、うちが食べるから」
悲壮な決意を固めた顔で、よもぎが長楊枝を振り上げた。
思わず、手が動いていた。ひょいと指を伸ばして、辛子のついたたこ焼きを摘まむ。そのまま、自分の口へ放り込んだ。
よもぎが叫ぶ。
「あーっ!」
「……むぐ」
かつおぶしのもそもそした触感と、青海苔の香りをソースの味が塗りつぶしていく。熱い生地を噛み締めると、ツンと強い刺激が鼻から抜けた。ふぐ。変な声が出る。可愛いクラスメイトの前で不細工な表情を晒したくなくて、俯き口を押えた。
「……いや、けっこう入ってんな……」
「水谷さん、だいじょうぶ? お水飲む?」
「あ、うん」
ミネラルウォーターのペットボトルを受け取って、半分くらい飲み干してから、ふと気づいた。キャップを捻る感触が軽い。
これ、飲みかけ。
よもぎが、私の背中にそっと手を当てた。
「ありがとー。水谷さん、いい人だぁ」
笑うと招き猫みたいだ、と思った。暖かな気配が、遠赤外線ヒーターみたいに私を温める。
いい人、か。何だかちょっと懐かしい。
ふと我に返って、ペットボトルの蓋を締めた。なにしてるんだ、私は。恰好付けて辛子を食べて、付き合いたての彼氏じゃあるまいし。
「お水、ありがと。冷めるから、他のも食べようよ」
「うん! あ、でもバナナジュース買ってこ。どこで食べよっか。中庭? それとも階段───あっ」
はしゃぐように歩き出したよもぎの肩が、同じ制服を着た女子にぶつかった。
「っと、ごめんね」
相手は髪の長い、綺麗な子だった。なんというか全体的に清楚で、青春映画のヒロインみたいな女の子。
クラスメイトではないけれど、どこかで見た気がする。やはり名前は出てこない。我ながらどうかと思った。
「あっ、うん、こっちこそごめんね。土屋さん」
よもぎがぺこりと頭を下げた。土屋。それで思い出した。土屋琥珀だ。美人という表現が、一学年、どころか学校で一番似合ってしまうかもしれない同級生。
彼女の視線が、一瞬、私を捕えた。
えっ、なに。思わず背筋が伸びる。それほどに強い、怒り(?)の籠った眼差しだった。
けれど、清楚系ヒロインに敵意を向けられる心当たりは全くない。クラスも部活も違うから、そもそも接点だってありはしない。
何か言われるのかな? とも思ったけれど、結局土屋は会釈をして通り過ぎていった。
後ろ姿を見送ったよもぎが、「はぁあ」とため息をつく。
「うーん、相変わらず顔が良い」
「土屋さん?」
「うん。ちょっとぞくぞくしそうな感じ」
「なにそれ」
吹き出しそうになる。確かに美形ではあるけれど、いくらなんでも大袈裟だ。
けれどしばらくの間、よもぎは、ぼんやりとその後ろ姿を目で追っていた。
なんだか面白くなくて、彼女の二の腕を肘でこづく。
「たこ焼き、冷めるってば」
「おっと、そうでした。ね、もうそこの階段で食べちゃおっか」
廊下の端の階段に二人で腰掛けて、長楊枝を手に取る。たこ焼きは、すでに冷めかけていた。なのに、それなり以上に美味しい。食品メーカーの企業努力は素晴らしいな、と思った。
食べながら、よもぎの視線が踊り場に貼られたポスターで止まった。手作りのポスターには、太いマジックペンでこう書かれている。「手芸部の手作り作品、1Fの家庭科室で出店中!」。
「覗いていく?」
「うん」
紺と浅葱で編まれたチェックスカートのお尻を、手で払って立ち上がる。
お昼どきだからか、家庭科室は、食べ物を扱う出店と比べて閑散としていた。黒く分厚いテーブルの上に、バザーみたいに手芸品が並んでいる。刺繍の入ったハンカチ、レジンを用いたペンダント、手首に巻き付けるためのミサンガ。
よもぎの目が輝く。
「わ、かわいい」
確かに、素人目にはどれもそれなりの出来栄えに見えた。レジンに小さな動物型のビーズが沈んだものなど、中々に愛らしい。
「これください」
よもぎが、ひとつの細いミサンガを手に取った。水色と緑色。二色の糸だけで編み込まれたそれは、他の作品と比べると地味ではあったけれど、美浜大附の制服には良く馴染むように思えた。
「水谷さん。手首、出して」
「こう?」
言われるままに手首を仰向ける。ブレザーの袖口から覗いたそこに、ミサンガが巻かれた。
「あげる。さっきのお礼ね」
「え。いや、いいよ。辛子食べただけだし」
「いいの。うちが嬉しかったから、お礼」
よもぎの指先が、手首の薄い皮膚をかすめる。丁寧に磨かれた爪が、小さな指先の上で真珠みたいに艶めいていた。
「それから、友情の記念品ね」
にぱっと花咲くみたいに笑う。綺麗な茶色に髪を染め、「友情」なんて言葉を照れもせず口に出せる彼女は、まるで別の世界の人間みたいだ。
拙い手つきで結ばれたミサンガを、ためつすがめつ眺める。
きっと私は、今日の出来事を忘れないだろう。もしかしたら、一生でさえも。
ろくに話したこともないクラスメイトと文化祭を回って、辛子入りのたこ焼きを食べて、ミサンガを結んでもらって。
だから。
「……あの、私も」
「え?」
視線をテーブルの上に走らせる。咄嗟に黄色っぽい一本が目に留まった。にこにこ愛想笑いしている上級生に金券を渡して、ミサンガをよもぎに差し出す。勢いあまって、差し出す、というよりは押し付けるみたいになってしまった。
「これ、お返し。あげる」
「……ありがと。やっぱり、やさしいんだ」
目尻を下げたよもぎが、控え目に右手の手首を差し出す。ずっと袖に隠れていた手のひらが露わになって、その白さと小ささに、なんだかどぎまぎしてしまう。
指先を震わせながら、どうにかこうにかミサンガを結び付けた。
ささやかな贈り物は、すぐに長い袖の中へと隠れる。彼女の手首を彩る編み紐の存在を、私だけが知っているのだと思うと、なんだかとても気分が良かった。
「毎度あり。君たち、仲良しだねぇ」
手芸部員のからかいに適切な返事が出来なくて、口ごもる。代わりによもぎが、私の肘に腕を回して、「そうでーす」と宣言した。
いや別に、そんなのではないけれど。
私の反論は、もぐもぐと口の中で消えた。
嘘じゃない。本当に「そんなのじゃない」と、そう思っていた。この頃はまだ。
これが私、水谷蓮花と草野よもぎの馴れ初めだ。
グループから外れたよもぎと、元々クラスで浮いていた私は、この日を境に友人となり、順調に友情という名の階段を昇って親友となった。
きっと。
そのまま転がり落ちずにいれば、きっと、終生の友にだってなれたのだろうけど。
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