世界で一番嫌いな君に口づけを

深水紅茶(リプトン)

「奈落に落ちろ」

第1話

「いいよ」


 と、土屋琥珀は軽薄に頷いた。


「水谷が代わりをしてくれるなら、いいよ。草野さんには手を出さない。約束する」


 放課後の校舎裏で、私に向かってそう告げた土屋の顔は、意外なくらいに真剣で、大真面目だった。

 晩春の生温い風が頬を撫でる。どこかで男子たちが笑い合っていた。運動部の掛け声と、トランペットの音色。

 頭の中で、告げられた言葉を反芻する。

 水谷が草野さんの代わりになるならいいよ。


「ごめん、意味わかんない」


「そう?」


 涼しい顔をしたイカレ女が、サラサラの髪を耳にかけた。緑の葉をつけ始めた枝垂桜の下で、黒髪が風にそよぐ。頭の天辺に、散りかけの桜の花弁が載っていた。

 手のひらに滲んだ汗を、プリーツスカートに擦りつける。

 どうやら会話のボールはこちらの手元にあって、コイツを打ち返すなり投げ捨てるなりする必要があるらしい。

 右の手首に触れた。そこには、水色と緑色の糸で編まれたミサンガが結ばれている。

 親友の、よもぎ───よもぎから、半年前に貰ったミサンガが。

 答えを迫るように、土屋が近づいてくる。目下、世界で一番嫌いな女に距離を詰められて、うなじの辺りを冷や汗が伝う。

 そして、私は。


  †


 私、水谷蓮花が草野よもぎの存在を初めて意識したのは、去年の十月。文化祭の日のことだった。


「今日の水谷は、五十点!」


 演劇部の山辺部長が、丸めた台本をピシリと付きつける。衣装から制服に戻ったばかりの、私に向けて。


「確かにホンどおりではあったし、声も出てたよ。一年で、そこはエライ。でもちょっと、芝居が淡泊すぎるね」


「淡泊、ですか」


 私の疑問を嗅ぎ取ったのか、部長は芝居がかった仕草で顎を撫でた。


「ホンに書いてあるとおりで詰まんない、ってこと。舞台の上では、もっと好きなようにやっていいんだよ。言っちゃなんだけど、所詮は部活なんだから」


「……台本どおりなのは、良いことでは?」


「悪かないけどね。でも、水谷は真面目過ぎるからさ。キミ、夏休みの宿題を一日目からやり始めるタイプでしょ」


「いやまあ、そうですけど。でも、それが正しくないですか」


「正解なんてないよ。最終日にまとめてやってもいいし、サボって怒られて補習食らったっていい。別に死ぬ訳じゃなし」


 あっけらかんと言って、パイプ椅子の上に胡坐をかく。スカートの裾が腿の上を滑って、白いふくらはぎが覗いた。


「本当に大事なことがあるなら、宿題なんてくそくらえでしょ」


 ぽかり。部長の脳天に、丸まった台本が振り下ろされた。丸眼鏡の副部長が、「後輩を悪の道に引きずり込むな!」と突っ込みを入れて後片付けに戻っていく。

 肩をすくめた部長が、私に笑いかけた。


「とりあえず、髪でも染めたら? 似合うと思うよ。うち、その辺自由だし」


「……はい」


 肩口でそろえた髪に触れる。一度も染めたことのない、地毛のままの髪。

 わかりました、と従順に頷く私に、部長が「うぅん」と唸った。


「だーかーらー、そういうとこだよ水谷。別に怒ってもいいんだからね。余計なお世話じゃー! って。うち、先輩後輩厳しくないし」


 まあいいや。そういって、部長がパイプ椅子から立ち上がる。


「そういう真面目なとこも、嫌いじゃないけどね。ま、ありがたい先輩の指導はここまで。文化祭、楽しんでおいで」


 舞台袖に詰めていた先輩たちに一声かけて、私は誰にも見えないようにため息をついた。

 淡泊でつまらない芝居。何だか、水谷蓮花という人間の本質を言い当てられたような気分だ。自分では無い誰かを演じる舞台だからこそ、かえって役者の本性が滲んでしまうのかもしれない。

 宿題なんかくそくらえ、か。

 そうかもしれない。

 でもさしあたり、そのときの私には、宿題よりも優先したいと思えるものなんて、何一つありはしなかったのだ。


  †


 後片付けを終えて、講堂の客席へ続く短い階段を降りる。部長の言葉が、魚の小骨みたく喉に引っ掛かっていた。

 髪をひと房摘まむ。母親譲りの、生まれ持った焦げ茶の髪。本当は脱色してもっと明るくするか、いっそ逆に黒染めでもしてしまいたいのに、どうにも踏み切れないでいる。

 例えば───今、ぱたぱたと駆け寄ってくる女の子みたいな、華やかな茶色はどうだろう。ああいう綺麗な色が、私の正解だったらいいのに。


「水谷さん!」


 そんなことを考えていると、なぜか彼女は私の前で立ち留まった。


「水谷さんの声、すごくきれいだね。うち、好きになっちゃいそう」


 私は一瞬、彼女の名前が思い出せなかった。クラスメイトだということは分かる。けれど、昔から人の名前を覚えられないタチだ。


「え、っと」


「あーっ、ひどい! 同じクラスなのに。よもぎだよ。草野よもぎ」


「ああ、うん」


 言われて思い出す。そうだ、草野よもぎ。改めて聞くと、何だか全体的に緑っぽい名前だと思った。和菓子屋の草餅みたいだ。そこから連想される柔らかなイメージが、ぴったり本人と一致する。

 もちろん顔は知っていた。教室で、愛嬌たっぷりに女の子たちとじゃれ合う姿も。

 けれどこんな距離で、一対一で、会話する機会はこれまで無かった。

 この子、近くで見ると可愛いな。というのが私の感想だった。きちんと睫毛を上向けた大きな目に、卵みたいな形の頭。垢ぬけた色合いの茶髪は、緩くアイロンで巻かれている。ブレザー代わりに羽織った薄手のカーディガンからちょこんと覗く指先が、あざといくらいに小さい。


「ちゃんと覚えてね? クラスメイトだもん」


「ごめん。草野さん」


「ちっがーう。ね、よもぎって呼んで。うちね、苗字で呼ばれるの、あんまり好きじゃないんだ」


 彼女は、当然のように私の手を握った。思わず目をしばたく。こんな距離感で接してくる友人は、これまで私の周りにはいなかった。

 次の公演に向けて、舞台にお城の書き割りをセットしていた先輩たちから、ヤジが飛ぶ。


「水谷が女子を口説いてる!」


「なにっ、一年風情がけしからん! 誰か引っ立ててこい! その首刎ねてくれるわ!」


 先輩たちが、『ロミオとジュリエット』で使う模造刀を振り上げた。成形して銀紙を張り付けただけの発泡スチロールも、幕が上がれば本物だ。

 壇上に向けて叫ぶ。


「先輩、私も女ですけど!」


「うっさい! あたしだって可愛いクラスメイトにちやほやされたいんだよ! 羨ましい!」


「そうだそうだ!」


 正直すぎる。色々としょうもない先輩コンビを無視して、よもぎに振り返った。


「くさの、───よもぎさんは、一人?」


 観客席に座っていた彼女の隣は、左右どちらも空席だった。名前はうろ覚えでも、クラスでの振舞いは知っている。確か彼女は、眩く華やかなグループに所属していたはずなのに。

 問われたよもぎは、きちんと整えられた眉をきゅっと八の字にした。


「……うん、ちょっとね」


 桜色の唇が、わずかに震えた気がした。

 脳内で、今日の予定を振り返る。一年生の舞台はこれで終わりだ。お昼どきを避けた二時間後に二、三年生が演じる現代版ロミジュリが始まり、一年生は観劇を勧められているけれど、それは特に義務ではない。閉会式の後は後片付けが待っているが、それまではヒマだった。学校の方針で、一年生はクラスの出し物もない。

 豊かに膨らんだ胸の前で、よもぎが指先を擦り合わせる。


「あの、あのね。水谷さんって、この後、誰かと回ったり、する?」


 それで私は、よもぎの意図を確信した。

 つまり彼女は、何らかの理由でグループをハブられたか逃げ出したかしていて、けれど一人で文化祭を回るという罰ゲームに耐え切れず、この講堂にやってきたのだ。ぼっちが文化祭で時間を潰すには、演劇という出し物は中々都合がいい。

 そして、もしついでに同行者が出来るなら───とか、そういうことだろう。

 それにしたって、と思った。彼女なら、一声掛ければ男子が放って置かないだろうに。


「別に。どっかでご飯食べて、先輩の手伝いするつもりだったから」


「そ、そっか」


 露骨に声が沈む。私は横を向いた。


「……でも、それは別に義務じゃないから」


 ぱあっとよもぎの顔が華やぐ。

 ここで「先輩の手伝いします!」なとどいったら、また部長に弄られるかもしれない。それだけだ。彼女も彼女で、文化祭ぼっちを回避できて喜んでいるだけ。

 それなのに、そんな嬉しそうな顔を作られると、何だかうっかり照れてしまいそうになる。


「じゃあ、一緒に回ろ? うちね、ずっと水谷さんとお喋りしたかったの」


 それが追加のリップサービスであることくらいは分かったけれど、それでも背筋の辺りがくすぐったい。よもぎが私の肘の辺りを摘まんで、くいくいと引っ張った。おのれデートか貴様、という背後の声に耳を塞ぐ。

 引きずられるように歩きながら、私は尋ねた。


「行きたいとことか、あるの」


「お腹空いた!」


 笑う。ここにはスポットライトなんて当たっていないのに、その笑顔のあまりの眩しさに、目が眩みそうになる。


「あのさ。ほんとに私で良かったの」


「何が?」


「だってよもぎさんなら、一緒に回りたい人、沢山いるでしょ。特に男子とか」


「ええ、なにそれ。そんなことないよ」


「文化祭だし。告白とか、されたりすると思うけど」


 私の言葉に、振り返った彼女は苦笑いをして首を振る。


「そんなこと、ないよ。ほんとに。水谷さんこそ、そういうの大丈夫?」


 あいにくその方面に縁は無い。

 誰かに「好きだ」と言われたのなんて、小学生のときが最後だ。家庭の事情で引っ越す親友に、「ずっと大好きだよ」と告白された。果たしてこれを告白にカウントして良いかは、限りなく微妙だけれど。

 その話をすると、彼女はくふくふと綻ぶように笑った。


「めちゃくちゃ可愛いエピソードだね、それ。ザ・小学生って感じで」

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