夜明けの末
とても。
とても長い時間だった。
廊下から聞こえてくるガタリ、という音が。
窓の向こうから聞こえてくるガタガタ、という音が。
聞こえてくる度に、私の頭はどんどんと冴えてしまって。
眠れない。
気付けば女子グループたちのいびきも止んでいて、室内は無音状態だった。
時計の音もなく、耳の奥にツンとくるような無音が続いていく。
その頃の私はもう、寝返りどころか腕一本すら動かすことが怖くなっていた。
自己暗示の金縛りにあってしまったような感覚。
悪寒が酷いのに、汗は止まず、滲み出ていく。
はやく、はやくと願うほど。
長く、長く感じる時間。
(もう限界だ…)
いっせいのーででスマホの時刻だけでも確認してしまおう。
布団の中で見ちゃえば光も漏れ出ないだろうし、迷惑もかけないはず。
そう思った私は意を決して、枕元に置いてあったはずのスマホへ手を伸ばそうとした。
―――そのときだ。
ガサリ。
と、音がした。
私の心臓は飛び出てしまうかと言う程驚き、そのせいで身体が大きく揺れた。
悲鳴が出なかったのは不幸中の幸いだった。
バクバクと高鳴る心臓。
怯える私を他所に、その音は静かに聞こえ続ける。
ぎし、ぎし、と。
ずっ、ずっ、と。
何処かへ遠退いていくその物音。
「あ……」
私は慌てて起き上がった。
その音の正体に、気付いたからだ。
「斎藤さん」
ようやく長い暗闇から開けた瞼。
その視界の先にいたのは、間違いなく斎藤さんだった。
「どこいくの…?」
暗がりから見える斎藤さんは大部屋の扉の前に立っていた。
「あ…トイレ…我慢できなくて…」
「あ…」
その単語を聞いた途端。
私も異様にトイレへ行きたくなってしまった。
恐怖の中、ずっと耐えていたけれど…実は尿意にも耐えていた。
だがそこで『私も』とは直ぐに言えなかった。
『ルナちゃん』
その言葉だけの存在が、未だ私を苦しめていた。
どんな感じの女の子なのか。
どんな凶器を持って徘徊するのか。
どんな風に襲ってくるのか。
どんな形で襲われるのか。
何も知らないのに考えれば考えるほど、嫌な汗と共に止まらなく湧いて出てきてしまう存在。
今宵、私をずっとずっと苦しめてくれた存在。
「大丈夫、怖いことなんてないよ。だから一緒に行こう」
スマホを片手に。
もう片手を私に向けて。
斎藤さんは私を誘ってくれた。
こんなことを言われては、誘われては、私は断ることが出来ず。
手を取るしかなかった。
恐る恐る触れてみた久しぶりの他人の掌―――斎藤さんの手は、ほんの少しだけ冷たかった。
私にとっては決死の思いの、扉の向こうであったのだが。
廊下に出てからはあっという間だった。
驚くほど静かであるが、全く真っ暗だというわけではなく。
廊下の突当りでは誘導灯の明かりがうっすらと緑色に光っていた。
どこからともなく変な足音が聞こえてくる―――なんてことはなく。
私は一体、何をこんなに脅えていたんだろう。
そう思ってしまうほどその廊下は至って普通に陳腐に見えてしまった。
「ほら何ともなかったでしょ?」
斎藤さんはそう言うとトイレ脇にあった休憩スペースのベンチへと座る。
そこには自販機の明かりがあって、時計の音も聞こえる。
見ると時刻は午前4時半過ぎ。後もう2時間は寝られる時刻だった。
「バスの中で怖い話聞いちゃって…それで怖くて…」
「そうなんだ。そういう話聞いちゃうと嫌だよね」
そう言いながら斎藤さんはおもむろに自販機へ小銭を入れお茶を2本買った。
「何だか暑くて汗かいちゃって…一緒に飲も?」
確かに私も汗をかいたし、尿意も消えたせいか少しばかり喉が渇いていた。
「どうぞ」と手渡してくれたお茶を受け取り、私は「ありがとう」と言った。
「けどそういう噂が本当だったらこの宿泊施設だってとっくに閉鎖なってると思うし…もっと目撃情報とか証拠とかだってあると思うからさ。結局はよくある怪談話なんだと思うんだよね」
私も思っていたことをズバリと斎藤さんは言って、お茶を飲む。
そうだよね。恐ろしがることなんて初めから何もなかったんだ。
まるで怖い夢から目覚めたような感覚で、私はようやく安堵した。
そう。全ては思い過ごし。怖い夢を見たようなものだった。
時が経てばこんな思い出あったよねと思うようになって、薄れていく程度の。
そう思い、私は窓から射し込む朝日を受けながらお茶を一気に飲み込んだ。
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