別れの朝(2)

「そうだ、俺も着替えなくちゃ」

 キスの名残を惜しむようにしてジェイドの首筋に鼻を埋めたリルジェは、すぐに魔法を練り始める。

「喪服、フォーマル、だらしなくない……」

 リルジェは歌うように唱えた。着ている安い木綿の服が、色と形を変え、ジェイドの後ろにいても遜色のない、控えめな下男の格好に変わる。喪に服す黒のスーツに、控えめなロープタイを身につけ、姿見の前でくるりと回る。

「もとが木綿にしては上出来じゃないか?」

 見ていたジェイドが、ヒュウ、と口笛を鳴らした。

「素晴らしいな、俺の魔術師マギ

「殿下。高貴なお方が口笛など吹くものではありません」

「お前の癖が移ったんだ。責任を取れ」

 リルジェは口笛を吹いた。ジェイドは笑って、リルジェの肩をこづいた。


 葬儀は太陽が真上に昇る頃からと決められていた。リルジェはお付きの下男として、一日中ジェイドにくっついて歩くことになっている。もちろん、周りにはリルジェが「魔術師」とバレないように。

 リルジェが「貧民街の魔術師」であることを知っているのは、ジェイドと、リルジェが下男として城に住むことを許可したオルガノ王。そして、あの夜ジェイドに随行したのイザック。この三人だけだ。

 そもそも、魔術師の家系は限られている。

 まず、偉大なる魔術師を祖に戴くアウローラ王家。そして初代アウローラ王の双子の弟、キュロスの血筋。──しかしリルジェの出自は判然としない。

 王家に連なる血筋だとすれば、顔つきも体つきも似ていない。だが分家であるキュロスの血筋にしては、魔力が強大すぎる。確実なことは、リルジェにも魔術師の血が流れていることだけだ。

 初めての謁見の際、請われて我流の魔術を披露したリルジェに、オルガノ王が直々に発言した言葉がある。

「そなたは魔力だけで言えばこの国いちの魔術師、稀代の魔術師マギ・アウローラである」

 リルジェは今も、その言葉をどう受け止めていいかわかっていない。権力が欲しいわけでもない。富が欲しいわけでもない。目の前の哀れな王子の力になりたいと、一瞬思った。ついでに豊かな暮らしもできたら万々歳。ただそれだけだった。

 ……少し前まで、それだけだったのに。

「もういいんじゃないか。似合っている」

「殿下が良いと仰るなら、これにしましょう」

 リルジェは背後に立つ王子を鏡越しに見つめ返し、肺の中の空気を全て吐き出した。

「……滞りなく進めばいいけどな」

 ジェイドは目を細めた。何事もない、などとはつゆほども思っていなかった。

 リルジェは利き手をジェイドの心臓の上に押し当てる。普段は見えぬ魔法印シールが惹きあって、星のように瞬いた。

「遠くにいるけど、お前のそばにいるから」

「ああ。……わかっている」

 衣裳が崩れぬよう、控えめな抱擁を交わした二人は、額と額を合わせて、そして離れた。

 これが、最後になるかもしれないなどと思いもせずに──。

 




 壁一面に黒い布がかけられた大広間には、王族をはじめ、亡き王子たちに近しい間柄の友人たち、その縁者が集まっていた。ジェイドとリルジェが到着する頃には、二つの棺は広間の中央に並び、葬儀を待つばかりとなっていた。

 ひそひそ。

 ひそひそ。

 すでに──関係者たちの間では、第三王子ジェイドが兄君二人を謀殺したのではないかという噂が広がっていた。王位継承権のない、「魔力」のない王子。彼が王位を得るには、二人の兄を消す必要がある──この数日で起こったこと、そしてジェイドの身の上を思えば当然の噂だった。ジェイドとリルジェは、その噂の只中に入っていくしかなかった。

 冷たい視線。疑いの眼差し。密やかな陰口。

「殺した兄君の葬儀に出るだなんてどんな神経をお持ちなのかしら」

 一際大声で話すのは、タンザの夫人である。男まさりの気の強い女で、ジェイドの最も苦手とする人物だ。彼女の黒いローブから伸びる細腕には、彼女の娘、エリザがしがみついている。

「大方まじない師でも雇って呪い殺したのでしょう。そんなに王座が欲しかったのですか」

 言葉の最後はジェイドに向けられていた。ジェイドは一礼し、こう答えた。

「タンザ兄上は、名誉の戦死を遂げられたと聞き及んでおります」

「貴方が仕組んだことでしょう!」

「私の剣に誓って」

 ジェイドははっきりと言った。

「私はタンザ兄上を弟として慕っておりました。どうしてたばかってまで命を奪いましょうか!」

「そんな軽いものに誓われても」

 夫人は冷たい声で跳ね除けた。

「いいですわ。夫は帰ってきませんもの。王座は貴方のものよ。これで満足?」

 ジェイドが言葉に詰まったその時。

「おかあさま、おじさまのことをいじめないで」

 エリザが口を開いた。

「おじさまは王宮おしろのなかで一番剣がお強いのよ。とってもお上手なのよ。いちど剣を持ったことがあるわ。とっても重かったわ。軽くなんて、なかったわ」

「え、エリザ……おまえ、なにを」

「お父様が亡くなったのは、おじさまのせいじゃないわ。ただ、

 リルジェはほっとした。エリザが発言しなければ、「ただの下男」が割って入って暴れ回るところだったからだ。リルジェは夫人をきっと睨みつけた。しかし、夫人は下男の敵意には全く気付いていないようだ。

「運が悪くて、二人も立て続けに亡くなってたまるか!」

 叫んだのはコーネルが弟と慕った文官だ。

「誰かがお二方を呪ったに決まってる!あのコーネル様が、あろうことか、足を滑らせて亡くなるなんて、そんなことあってたまるか!」

「コーネルおじさまも、運が悪かっただけなのだわ」

 エリザはなおも続けた。

「占いのおばあちゃまがそう言ったの。そういう呪い運命の操作なのですって。魔法じゃどうにもならないことだったのですって」

「やっぱり呪いなんじゃない!」

 夫人は叫んでジェイドを指差した。ざわめきが大きく激しくなる。リルジェはすかさず、その間に割って入った。ジェイドが咎めるような声を上げた。

「リルジェ!」

「……これ以上は、我慢なりません。我が主を貶められて、黙ってはいられません!」

「ダメだ、リルジェ……!」

「こちらにおわすのは第三王子、ラウル=ジェイド・アウローラ、亡きタンザ殿下の弟ぎみです。リエール夫人。兄君をいちどに失って何よりも悲しんでいらっしゃる王子に、なんと無礼な……!」

「おまえ、何者なの!?労働者階級使用人の分際でわたくしに説教でもしようというの!?」

「私は──」


「そこまで」

 響いた声は、そこにいた全員の視線を集める。リルジェは空間支配の魔法の気配を感じ取った。衆目を強制的に集めた車椅子の壮年の男こそ──サフマ=オルガノ・アウローラ王である。

「単なる噂で身内同士争う必要はない。のう、リエールよ。夫を失って心ぼそいのはわかるが、我が息子に八つ当たりをするようではいけない」

「は、はっ。お見苦しいところを」

「それから、エリザや。お前はよい魔女になる。その目を磨き、これからも占いの婆に習いなさい」

「はい、おじいさま」

 エリザは礼をとって答えた。

「……ジェイド。辛いだろうが、今はお前しか居らぬ」

「はい、父上」

「葬送の炎を、灯せるか。私だけの力では不足やも知れぬ」

 父王は二つの大きな棺を見渡し、それから自らの石化した両脚を見た。

「もう昔ほどの火力は出せないだろう。……できるか」

 オルガノの目が、ジェイドを、そしてリルジェを見た。リルジェはその視線でもって答えた。そしてジェイドは礼と共に答えた。

「はい。私でお力になれるのなら」

 先ほどと同じくらいのどよめきが、大広間を覆った。あの末王子が魔法を使えるのか。使えるようになったのか。と。


 リルジェの右手の甲が、音もなく、熱くなる。手袋の下に隠した紋様がうっすらと浮かび上がってくるのを感じる。リルジェは後ろ手に腕を組み、壁際に寄って、それを隠した。

 棺を覆い、焼き尽くす青い炎は、煙の出ない魔法の炎だ。骨も副葬品も残さず全てを灰に帰してしまうのに、生者に燃え移ることはない。炎は青い蝶のようにひらひらとバルコニーの方へ向かって流れていく。この国の人々はそれを死者の魂と呼んでいた。

 泣き伏すリエール夫人の声が聞こえる。啜り泣きがあちこちから聞こえてくる。けれど、それよりも、──最も近くに、ジェイドの涙を感じた。嗚咽を感じた。

 彼は子供のように泣いていた。表情に出さずに、棺を焼くつとめを果たしながら、泣いていた。

 リルジェとジェイドの魂は確実に繋がっている。だからリルジェは、そっと彼の背に手を添えるような気持ちで囁いた。

──よく頑張ってる。お前はよくやってるよ。

その時、低い位置から声が聞こえた。

「リルジェ?」

 暇を持て余したらしいエリザだ。

「どうされました、姫殿下」

「あのね。

「……はいいろ?」


 大広間の中央では、二つの棺の灰が魔法によって集められていた。両手に抱えられるほどの瓶の中に、煌めく灰が積もっていく。


「注意してね。

 エリザはそう言うなり、号泣する母親の元に戻って行った。




 

 

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