第1章
別れの朝(1)
どんよりと曇った空が、アウローラ国の王都オリガを覆っていた。不吉の象徴とされる
離宮の窓から見るオリガの街は静かだ。普段ならば朝市が催され、売り手に買い手で溢れかえる大通りも、今はしんとして人の姿はない。常なら色とりどりの織物がはためいている家々も、今はめいめいに黒い垂れ布を飾って、王子二人の喪に服していた。
第一王位継承者であったラウル=タンザ、第二王子のサハル=コーネル、二人、まるで連れ立つように逝ってしまった。
ジェイドにとって実兄であるタンザは遠征先での戦死、異母兄コーネルは階段からの転落死……なんの因果か、同日だったと聞いている。
立て続けの訃報は、国を悲しみに沈めるには十分だった。
離宮暮らしの長いジェイドに、兄王子たちとの想い出は少ない。しかし、死んだことを聞いて悲しまないほど、ジェイドは薄情な男ではなかった。
「タンザ兄上。コーネル兄上」
あの胆力のあるタンザが、あの賢いコーネルが……窓の外、眼前に広がる喪の風景に、ジェイドは瞼を伏した。
三人いた王子が、自分一人に、なってしまった。
「……お気持ちは痛いほど解りますが、殿下」
畏まった口調で、リルジェが言った。
「そろそろ衣装を決めて頂かなくては困ります」
ジェイドが振り返ると、リルジェは下男らしく頭を下げ、壁に掛けられた二つの衣装を見せた。
いつ見ても、端麗な横顔に目が吸い寄せられる。初めて貧民街で出会ったあの日から何ひとつ変わらない白皙の美貌。少女めいた輪郭から、薄い色の睫毛まで。
あれから十年。ジェイドは二十五になっていた。それなのに、リルジェだけは、身長が伸びこそすれ、あの日から全く変わっていないように見えるのだった。
「……お前はどちらがいいと思う、リルジェ」
「殿下も魔術師として、式に参列すべきではないかと思いますが」
リルジェは
ジェイドは未だ迷っていた。リルジェが示した魔術師の正装か、はたまた宰相の持ってきた、アウローラ陸軍の正装を取るべきか……
「うーん、迷うな……」
「じゃあなんで聞いたんだよ!いい加減に……!」
リルジェが堪えられずに行儀を崩すと、外からノックが三度、聞こえてきた。
「失礼致します、殿下」
現れた長身の男はイザック・トビア。ジェイドの乳母の息子で、アウローラ史上、もっとも若い宰相だ。
「入室の許可は与えていないが」
ジェイドが顔をしかめると、イザックはくいと眼鏡の位置を直した。
「耳障りな雑音が聞こえたので、つい」
「特にそんな音は聞いていないな。お前は耳が良すぎるのではないか?」
「そうですか。それは大変失礼を」
ジェイドは再び二つの礼装に向き直った。どちらも身につける資格はある。けれど……。
「……よし、軍の正装にしよう」
「そんな、殿下!」
リルジェが不満そうな声をあげた。一方でイザックは喜色満面に軍服を見上げた。
「きっと鍛え抜かれた御身によくお似合いです。誰もが殿下を讃えましょう」
ジェイドが、冷たい目をイザックに向ける。
「イザック。今日はそのような席ではない。忘れたのか。お前、兄上たちへの忠誠はどこへ捨ててきた?」
「ええ、忘れてなどございません、お二方の記憶は褪せぬまま。此度の一連の出来事は、我が国始まって以来の悲劇でございます……しかし、まさかあのちいさな殿下が、この頼もしく輝かしい軍服をお召しになる日が来るとは」
頭痛がし始めた。イザックは始めるといつもこうだ。口先ばかり回して、本音を端々に滲ませる。おそらくこう言いたいのだろう。
──魔力を持たぬお前は魔術師ではないと。
リルジェが耐えかねたらしく口を開いた。
「……宰相様。殿下はお召替えをされます。一度ご退席を」
「ああ、申し訳ない。魔術師殿。お邪魔を致しました」
リルジェが柳眉を寄せた。
「私は下男です。そのような呼び方はおやめください。宰相様」
「いいえ。能力の高い方には敬意を、偉大なる王族には忠誠を。亡き父のモットーでございましてね」
イザックはちらとジェイドを見た。そして、「失礼致しました、どうぞごゆっくり」とドアを後ろ手に閉めた。
イザックの去ったドアに対して「イー」と歯を剥いているリルジェがおかしくて、ジェイドは音もなく笑いながら、リルジェの肩を叩いた。
「お願いするよ」
アウローラ国においては「手」に意味がある。
リルジェの手を借りて、軍服に袖を通していく。リルジェは淡々とそれをこなす。魔法でかかれば着替えなど一瞬だ。しかし、特にこの国においては、手を使った着衣は儀式の一つだ。
気が遠くなりそうな数のボタンを器用に嵌めながら、リルジェが呟く。
「お前は、魔術師になったんだ。だからあの正装に袖を通す権利がある」
「……お前なしには魔術師にはなれない。皆もそれを知っている。所詮は紛い物さ」
「……」
紛い物なものか、とリルジェは考えたが、元から控えめな上、離宮暮らしに慣らされたジェイドが、自らを「魔術師である」などと公言することは難しいだろう。遠い日に結んだ魂は、数えるほどしか繋がったことがない。
──リルジェに負担をかけるから、と。
リルジェは背後から前に回り込むと、前のボタンを留め始める。キリがない。しかし、軍服を選んだ時からこうなることはわかっていたのだ。
「すまないな」
「殿下は、謝られるようなことをしましたか?」
「……それも、そうか」
華美な装飾、勲章の数、全てを揃える頃には、姿見の前に第三王子の堂々たる姿が映し出されていた。陸軍の若き将校。ラウル=ジェイド・アウローラ。
「でん……ジェイド、今のお前、キスしたくなるくらいイカしてる」
貧民街で染みついた口調が抜けきらないリルジェが、自分の仕事の出来栄えに惚れ惚れしていると、ジェイドがこちらへ歩み寄り、リルジェのおとがいを掬い上げて、その頬にキスを贈った。
「どうだ?」
「……ここにキスしろとは言ってない」
「そうか。ダメか」
リルジェは唇の触れた頬に触れて、むっと唇を突き出した。
「──するならこっちだろ」
聞くなりジェイドは体をかがめ、リルジェは応えるように背伸びをした。
「……続き、」
白皙の頬を赤らめて、リルジェがジェイドを真っ直ぐ覗き込んだ。
「終わったら、しよう」
「その言葉、後悔するなよ」
ジェイドは自ら襟を正した。勲章や、装飾や、金色のタッセルが揺れた。なでつけた髪の毛が、ジェイドを一層男前に見せる。
「……脱ぐのが大変そうだがな」
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