玉手箱②

ピピピピピ―――。


 無機質なアラームで目が覚める。音を止めて、ベッドサイドにあるリモコンでエアコンをつける。


「さむ……」


 実際は声にならない呻き声を発して起き上がり、テレビをつける。


「昨日のコロナ感染者は東京都内で過去最高の数字となりました……」


「ウクライナに軍事侵攻に踏み切ったロシア軍は……」


「北京冬季パラリンピックで日本はメダル七個を獲得し……」


 時計代わりのテレビから流れて来るニュースを聞きながら、身支度を整え、コーヒーを淹れる。


 昨日とも、一ヶ月前とも、一年前とも、同じような毎日がやってくる。朝起きて、コーヒー飲んで、会社に行って、仕事をして帰って来て、食事を終えたら音楽聞いたり、スマホでゲームをしてみたり。


 同じような毎日に、なんの問題も不満もない。俺は今の生活が好きだから。飛び抜けた幸せはないかもしれないけど、ぼちぼちと日々を過ごせている今は平和で心地いい。


 変わらないということは、ずっとそれなりの満足が続いていくということだ。それでいい。大きく感情を揺さぶられる恋愛に身を置いて心がすり減ったり、刺激に満ちたギャンブルな世界に生きるより、誰に脅かされることもない似たような平和な毎日が続いていく方が全然いい。学生の頃はいざ知らず、もういい歳なんだしそんなものを体験するのはドラマや漫画で充分だ。


「時刻は七時四十五分になりました。次のニュースです」


「おっと」


 そろそろ出なければ。今日はまた出社日だ。カップを流しに置き、鏡で軽く身だしなみをチェックする。


 ワイヤレスイヤホンをつけ、音楽を流しつつ家を出る。


 視線を上げれば完成しては作り、居なくなっては新しくなる街並み。街づくりや都市開発なんていう、終わることのない工事の中をいつもと同じように歩いて駅へと向かう。


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 流行りの曲に混じって鬱陶しい広告が流れて来る。いい加減有料会員になるべきか……。うんざりしたのも束の間、新しい曲が流れてくればまた忘れてしまう。


ゴホゴホ―――。


ハクション―――。


 マスク越しのくぐもった声が音楽の向こうで聞こえる。多少気にはなるものの、一時のピリピリした空気はあまり感じられない。


 ちょっと前なら目くじら立てて怒る人がいたけど。


 いや、そもそもこんなに人がいなかったか。外出している人はごく少なく、みんなステイホームだったか。この大都会東京があんなにも空虚に感じたのは初めてだった。


 例に漏れず、うちの会社だってほとんど在宅に切り替えたんだし。


 ふと隣を見れば、柄の入った手作り風のマスクをつけた中年のおじさん。見た目の地味さに反して鮮やかな赤い色の、なんとかっていう四角がたくさんある柄の派手なマスク。きっと奥さんの手作りだろう。反対側は、ウレタンのお洒落度合いの高いマスクをつけているOL風の若い女性。サーモンみたいな色のマスクは少しだけ上品な印象を受ける。……まさかマスクまでお洒落の対象になるなんてな。


 在宅が当たり前の今、こんなぎゅうぎゅう詰めにされる満員電車が苦痛でしかない。平気な顔して詰め込まれていたあの頃は一体なんだったのか。本当にそんな時期があったのか……? 幻のように思えてならない。


「おはようございます。今日は冷えますね」


「おお、君か。おはよう。寒い日が続くが、私は春の高校野球が楽しみで仕方ないよ。こんな寒い冬の日でも体力づくりに一生懸命励んでると思うと胸が熱くなる。そうは思わんかね?」


「はい、私も試合を観戦するのが楽しみですのでそう思います」


「そうだろうそうだろう。いやぁ、君とは野球の話ができるから楽しいよ」


「私も部長とお話させていただけて嬉しいです」


 本心、なんて言葉は、建前と言う言葉を生み出した弊害だ。


 誰だって円滑なコミュニケーションを取るために、大小さまざまな嘘や見栄なんかを相手のために、ひいては自分のために駆使している。


 野球が好きか?と聞かれたら、別に好きでも何でもない。相手が上司だから話を合わせているだけだ。


 学生だった頃は、そんなのは欺瞞だ、詐欺だ、と、独りよがりの責任感で嫌っていた時期もあった。あの頃は何も知らない子供だった。ただのガキだった。


 何かを捨てて、何かを得る。何かを享受するために、どこかで我慢する。


 そんな当然のことが、あの頃の俺にはわかっていなかった。地元を離れて東京に出てきたのは、きっとそんなことも要因なんだろう。

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