ゴールデン・ドリームを彼女に
その名はマリーナベイ・サンズ。世界最大級のカジノをメインに、美術館やシアターなどのエンタメ、ショッピングモールまでもが併設され、カジュアルに楽しむことができるカジノホテルである。
そんな煌びやかな時間が流れる、華やかな空気に似つかわしくない男が一人。
その男は少し疲れたように、ソファへと軽く腰かけていた。くたびれたシャツと、黒に近い濃紺のスラックスにさらに皺が寄っている。年の割に老けて見えるのは、眉間に寄った深刻そうな皺のせいだろう。この場所では誰もが浮かれはしゃいでいるのに、その男だけは違っているようだ。
「ジョニー、この捜査は無意味だ。誰からも証拠が出ない」
男は左耳に手を当て、イヤホン型の通信機を起動してから言った。
『だろうな。十中八九、依頼人の被害妄想だろうよ』
通信機の向こうで答えた声はひょうきんな、男にしては高めの声だった。
「こんなところまで来させといて」
『そう言いなさんな。最近、アンタは働きすぎだぜ? ボスから小遣いも出たことだし、遊んで来いよ。もう部屋は手配してある』
「そんなものいらん」
食い気味に答えた男は空を仰いだ。と言っても、見えるのは吹き抜けになった天井と、人の蠢く様だけである。
「休みなんて、いらねえよ」
『アンタにゃ、またしっかり働いてもらわなくちゃいけないんだ。ほら、東洋の
「それは大成するためには小さなことから確実に始めなければならないという意味だ。付け焼刃で使うんじゃない」
『わかってるよ、だからアンタにとってはその為の休暇なんだよ。わかったらさっさとカジノでも行って来い。一応回線は開けとくが、緊急性のないものや次のミッションに関することは無視するからな』
「カジノは苦手だ」
『はっ、せいぜい満喫するんだな。いい休暇を』
男はしばらく呆けていたが、ゆっくりと立ち上がって歩き始めた。外に出ると熱い日差しが肌に刺さり、湿った海風が頬を撫でた。誘われるようにスモーキングエリアへ入ると、白い紙巻き煙草にジッポライターで火を点けた。
男の吐き出した紫煙が、ヤニ臭いその空間をさらに上塗りしていくようだ。たっぷり時間をかけて吸い終えた男は、観念したようにホテルのロビーへと足を進めた。
「こちらがお部屋のキーになります。どうぞお寛ぎください」
預かったキーで部屋を開けてみると、広々とした空間に落ち着いた調度品の数々が男を迎え入れた。ホームパーティーができるほどの部屋の一角には、グランドピアノが鎮座している。窓の向こうにはシンガポールのビル群が立ち並んでいて、男をじっと見ているようだった。
「無駄金だ……、給料で還元してくれよ」
男は溜息まじりに呟くとベッドに倒れ込んだ。柔らかく清潔で、ほどよくスプリングの利いたキングサイズのベッドは、男を眠りへと誘った。
―――――
紅龍房というネオンが赤々と光っている。眉間の皺が幾分ましになった男は中華料理店で食事をとっていた。
「失礼します」
配膳するのはエキゾチックな顔立ちの若い女だ。細身のしなやかな肢体が、空いた皿を無駄のない所作で片付けていく。芯の強そうな黒い瞳が、男の普段見ている世界からは遠く思えた。
「ありがとう、とても美味しかった」
男は自分自身が思っているよりもずっと、心も身体も疲れていたのかもしれない。普段は声をかけようなどと思わないのに、つい口に出てしまった。
「光栄です」
女はさらりと答え、作業を続ける。
「君はここの生まれか?」
「いいえ、違います」
「そうか。もしかして故郷は東洋の……いや、すまない。仕事で立ち寄ったことがあってね、つい懐かしくなってしまった」
自嘲気味に言うと女は興味を惹かれたのか、じっと男を見た。
「そこの美しい景色は今でもよく覚えているよ。仕事でもなければゆっくりしたかったんだが」
「ここへも仕事ですか?」
「いや、強制休暇、といったところだ。ところで、落ち着いて話せるところはないかな?」
「お酒を飲まれるのでしたら、展望ロビーにバーがありますよ」
「君は、来てくれないのかい?」
男の言葉に、女はじっと黙った。この辺りが引き際だと男は悟った。
「気が向いたら来てくれ。お詫びに一杯奢るから」
男はそれだけ言うと、女に紹介されたバーへと向かった。
こんなふうに軽々しく女性を口説こうなどとは、よほど疲れているのかもしれない。いや、むしろまだ女を口説く気力があるとは。少しだけ飲んだら熱いシャワーを浴びて寝てしまおう―――。
そんなことを考えながら、男はバーに入った。
「タリスカーをストレートで」
注文し、煙草を咥えてそっと店の中を見る。照明を極力落とした落ち着いた空間で思い思いに酒を飲む客達。雰囲気のいいジャズ・クラシックの合間に、客たちの会話の断片が挟まっていた。
そんな中男は酒を口に含みながらも、しぶとく今回のミッションについて考えを巡らせていた。
男の所属する組織に来た依頼はこうだ。
マリーナベイ・サンズには世界最大級のカジノがある。快適にカジノを楽しんでもらうため会員制になっているのだが、情報が抜かれているという疑惑が持ち上がった。情報を抜いた者の得体は知れないが、その者には何故か薔薇の
「カジノ、か……」
男はグラスを見つめ、短くなった煙草をもみ消した。
「カジノ、行くんですか?」
不意にふわりと甘い花の匂いが漂った。男の右隣には先程口説いた女が座っていた。レストランの制服ではなく、ドレスアップした姿で。
「マティーニを」
「俺にも同じものを」
間もなくして差し出されたグラスを掲げる男と女。
「美しい君に」
「あなたとの出会いに」
つ、と妙に艶めかしい仕草でマティーニに口をつける女。その姿は、男が昔愛した女の一人に似ていた。
「故郷を捨てたんです」
唇を湿らせた女は、おもむろに話し始めた。
「病弱な妹の為、すぐに大金が欲しかった。でも女ができることは限られています。とても危険な、失敗したら死んでしまうような、そんな仕事ばかり選びました」
女はまた一口、マティーニを口へ運んだ。
「馬鹿な女。できるはずもないのに。でもきっとなんとかしたかった、動かないでいられなかった」
男は黙っていた。
「どうしても、何もしないではいられなかった。……そんな、どこにでもある話」
女は熱を帯びた口調で、男を見つめていた。その黒い瞳は潤んで、今にも零れそうだった。
「妹が、元気だといいがな」
「……なんであなたに話してしまったんでしょう。こんな話……」
女はそう言うと自嘲気味に笑ってグラスを空にした。
「よい休暇を。……おやすみなさい」
女はおもむろに男の頬へ軽く口づけをした。そして男に背を向け、真っすぐに歩いて行く。
艶っぽい腿が、短いドレスの裾を捌きながら女を遠くへ運んで行った。ちらりと見えた腿の裏側に、赤い痣があったのを男はただじっと見ていた。
「ギムレットを」
女が空けたグラスに乾杯した男は、静かに瞼を下ろした。
―――――
肌寒く薄暗い室内。弱い点の光が羽虫のように蠢いている。男はホテルのサーバールームで静かに待っていた。
いくらかましになったはずの眉間の皺は、また深い皺に戻っていた。右手は腰に提げたホルダーの上を無意識に撫でていた。
時間の感覚がなくなっていく部屋の中で、一体どれほど待っていただろう。数時間が経っている気がしたが、ほんの数分だったかもしれない。
するりと、何かが部屋の中に侵入した。ところどころに設置してある、淡く青白い光がどこか幻想的に侵入者を浮かび上がらせている。
そこには、昨夜男が口説いた女がいた。
設置されたひとつのサーバーの物陰で、女はなにやら作業をはじめたらしい。
「昨日は楽しかったよ」
男が至って穏やかな口調で女に話しかけた。
「……ええ、私も楽しかったわ」
驚くそぶりもなく、女が答えた。
これがカフェなら和やかな会話である。
「今日はお茶でもどうだい?」
「そんなに暇じゃないの」
「世知辛いな」
「それに理不尽で不条理よ」
女は男に振り向くと、一歩、近づいた。
「いつだって世の中はそう。救いの手なんておとぎ話なのよ」
「そうかもしれないな」
女は更に一歩近づいた。
「どうしてあなたなんでしょうね」
「どうして君なのかな」
「悪い人」
「いい女だ」
「私を殺す?」
男を見つめる女の瞳は、宇宙のように果てのない黒だった。サーバールームの暗がりよりも黒く、全てを飲み込んでしまうような圧倒的な黒色。
「妹さんは、元気なのかい?」
男が問いかけると女は鼻で笑った。
「もう死んだわ。間に合わなかったの。だからこれは、私の、私自身の自由の為よ」
蔑んでいる声色とは裏腹に、女の表情は悲痛の面持ちだった。
「見逃しては、くれないわよね」
女は更に男へと近づいた。もう、手を伸ばせば触れる距離だった。
「夢を見せて」
そう言うと女は手を伸ばし、男の唇を人差し指でなぞった。
男は微動だにせず、ただ静かに女のことを見つめていた。
と、どちらからともなく抱き合った。ずっと寄り添って生きてきた伴侶のように、お互いの身体は馴染んでいた。
女は潤んだ瞳で男を見上げた。そのまま、ゆっくりと近づきそっと唇を重ね合わせた。男の冷たい唇が、女の火照った唇で溶かされていくようだった。
「また、どこかで会いましょう」
女はそう言うと隠し持っていた拳銃を自分のこめかみに当てた。
「さようなら」
女は自ら引き金を引いた。
―――――
『まさか本当にいたとはな』
「ああ」
『相変わらずアンタは女運がいいな』
眉間に皺を寄せた男は、紙巻き煙草にジッポライターで火を点けた。
『どうして女はこうも、アンタに弱いのかね。本当、羨ましいぜ』
男が吐き出した紫煙が、雲が垂れ込めた空へと滲んでいく。
『あーあ、俺もいい女と夢を見てみたいぜ』
「もういいか、切るぞ」
男は返事も待たずに通信を終えた。
火を点けたばかりの煙草をもみ消し、男は次の依頼へと歩き始めた。
胸に彼女との記憶を残したまま。
―完―
Special Thanks: sct (サーバー)、ピーター・モリソン(料理店)、ニトリ嬢 LUNA (マリーナベイ・サンズ)
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