大切なあの人と人生について語らいの授業……。

「れ、零お兄ちゃん、なぜ茜さんと俊さんが一緒にいるんですか!?」


 俺に呼びかける彼女の声がどこか遠くで聞こえるような錯覚を覚えた。

 体中の力が抜けその場にへたり込んでしまいそうになる。

 次の瞬間、電車の扉が開き、乗降客に押されて戸口付近に立っていた俺たちは到着した駅のホームに無理やり降ろされてしまった。夕刻時のためか駅の構内は混雑している。


「くそっ!? 人混みが邪魔で駅前通りが見えないじゃないか!!」


 旅行鞄の底に付いている車輪がホームの段差に当たって耳障りな音を立てる。

 その音はまるで俺の今の心境そのままだった……。


「零お兄ちゃん、大丈夫ですか!? すごく顔色が悪いですよ……」


 心配そうに俺の顔を覗き込む乙歌のために、大丈夫だよと言いたいが、今の俺には無理だ。信じていたものが足元から崩れていく感覚に全身をさいなまれていたから……。


「……あの二人は!?」


「もう見えなくなっちゃいました。電車が進行方向に動いていたのと駅のホームが混み過ぎでした。だけど乙歌は見ましたよ。うちの車が側にあったのできっとお父さんが私を駅に迎えに来ていたんだと思います。だからしゅんさんも……」


「気休めはやめてくれ!! じゃあ何で旅行先から消えた茜が香坂と一緒にいるんだよ!! 説明がつかないだろ!!」


「……れ、零お兄ちゃん、それは」


 駄目だ……。これ以上口を開いたら彼女にもっとひどい罵声をあびせてしまう。

 みるみるうちに乙歌の大きな瞳の中の光彩が激しく揺れ始め、大粒の涙が目に浮かぶ。


 俺は何をやっているんだ!! 彼女に八つ当たりをしても仕方がないのに……。だけどこの胸に湧き上がる黒い感情を抑えることが出来ないんだ!!


「……乙歌、ごめん、君を家まで送り届けられなくて」


「あっ!? 零お兄ちゃん、待って!!」


 俺はその場から立ち去った。いや逃げ出したと言ったほうが正解だな。

 このままだと大切な幼馴染をもっと悲しませてしまうから、これが最善の方法だとそのときの俺は思ってしまったんだ……。



 *******



れい、お前は今回の旅行で何をしてきたんだ?」


 俺は親父の顔をまともに見ることが出来なかった……。


 失意のまま一泊二日のモニターツアーを終えて帰宅した俺を待っていたのは、

 父、野獣院達也やじゅういんたつやからの厳しい言葉だった。


 普段はお調子者で、口を開けば親父ギャグ、その八割方がエロ方面で占められ、

 正に歩く親父構文みたいな人物だ。

 そんな親父が、見たことのない険しい顔をしている理由が、

 俺には見当もつかなかった……。


「……零、父さんはお前に言ったはずだ。野獣院の名にふさわしい男になって欲しいと。その言葉の真意は分かるな?」


「……親父、俺は」


 野獣院の名にふさわしい男。

 

 本当に自分が愛するパートナーを見つけたら野獣の如く愛し抜け、その言葉にはセックスだけではなく愛する対象を獣のように全力で外敵や困難から一生守ることが含まれている。


「父さんが怒っているのはお前の優柔不断な態度だ。旅行前に一緒に入った風呂で、お前は同時に二人の相手を好きになり、どちらに気持ちを向けるべきか悩んでいると言っていたな? 好きになる人の数は問題じゃない。頭でなくおちんちんで考えろ!! お父さんはそう言ったはずなのにお前はまだ頭でごちゃごちゃと考えている。結論を先延ばしにしてどちらの女性にも曖昧な優しさで接する態度、それは一見、優しい男のように思える……。が、そんなやり方はどちらの女性にも失礼だ、いや、侮辱している。愛するなら均等に愛を注げ、玉キュンして抱きしめた先に答えがある。それが野獣院家の矜持きょうじだ!!」


 ……俺はぐうの音も出なかった。


 美馬茜みまあかね香坂乙歌こうさかおとか

 二人の幼馴染みが揃った一泊二日のモニターツアー。

 俺にとってまたとないチャンスだったのに結論を出さずに終えてしまった。

 茜が急遽、お泊まりから帰ってしまうトラブルがあったとは言え、

 あまりに煮え切らない俺の態度に親父は怒っているんだ。

 旅行先のホテルから姿を消した後で、なぜか駅前で乙歌の兄である香坂俊と一緒に歩いていた茜。そのことを思い出してまた俺の胸は激しく傷んだ。


「……親父、俺はいったいどうしたらいいだろう!?」


 自分のふがいなさに涙がこみ上げてくる。

 膝の上で握りしめた拳が小刻みに震えた。

 肩を震わせ嗚咽しはじめた俺の肩に、親父は優しく手を置いてかゆっくりと語り始めた。


「零、お前は優しすぎる。それは長所でもある。亡くなった母さんも優しい女性ひとだった。お前はその優しさを受け継いでいるんだな。きっと母さんが俺にのこしてくれたギフトなのかもしれない……。今回、父さんがお前を叱った本当の意味をどうか間違えないで欲しい。優しいことは決して悪いことじゃない」


 ……母が俺に遺してくれた物は本だけではなかったんだ。


 俺は実の母親の顔を知らない。

 物心ついた頃にはすでに母親は他界していた。

 古いアルバムの中で微笑む女性はどことなく俺に似ている気がした。

 俺のために蔵書を用意してくれ、その中には付箋で短いメッセージがあり、

 俺のことを大切に想ってくれていたことは身に染みて理解していた。

 だけど父の口から直接、母の思い出を聞くことは今回が初めてだ。


「親父、亡くなったお母さんってどんな人だったの?」


「零、お前、話をはぐらかそうと何をやぶから棒に聞くんだ。冴子さえこさんがどんな女性だったかだと!?」


 冴子さんとは俺の母親の名前だ。

 親父は明らかに動揺した素振りを見せた。

 昔からそうだ。親父は亡くなった母親のことになると急に口が重くなる。


「……聞きたいんだ、俺の母さんについて」


 親父はしばらく腕組みをしたままリビングの天井を大きく仰ぎ見た。

 そして大きく深呼吸をした後、柔和な笑みをたたえながら俺に視線を落とした。


「……これまで何も言わずに来てしまったからな。お前に母親がいなくて寂しい想いをさせたことは事実だ。冴子さんが亡くなってから男手一つでお前を育て上げるためと仕事を理由にして子供にとって一番大事な時期を一緒にいてやれなかった。そのことについてまず謝らせて欲しい、零、本当にすまなかった……」


 親父からの突然の言葉に俺は子供のころを思い返した。

 近所にお祖母ちゃんがいて、週に何回かは来て貰っていたが、

 忙しい仕事をしながら子育てをする大変さに俺はまったく気が付いていなかった。

 高校生になるまで育てて貰うのが当たり前ぐらいに思っていた。

 成長の節目で無遠慮に投げかけた言葉がまるでブーメランのように俺に突き刺さってくる。


『何でウチにだけ母親がいないの? 授業参観にお祖母ちゃんじゃ、僕は嫌だ!!』


『お父さんの嘘つき、零の誕生日には会社を絶対に休めるって言ったのに……』


『親父、悪いけど俺の弁当は作らなくていいから、学校の友達におかずのいろどりが悪いってからかわれたんだ……』


 ……親の心、子不知こしらずとはまさに俺のことだ。


 親父がどんな思いで必死に俺を育て上げてきたのか?

 毎朝、誰よりも早起きして不器用な手で詰めてくれたお弁当。

 今まで愚痴一つこぼさず仕事に家事と愚直くちょくに勤め上げてきた。

 そんな親父の生き方を俺はどこかでさげすんでいた。

 平凡なサラリーマン、家と会社の往復だけのつまらない人生。

 そんな大人になりたくないと思っていたんだ。

 俺には親父を笑う資格なんか無い。一銭も自分の力で稼げないくせに、

 今、俺が着ている服や俺の持ち物、座っているソファ、この家全てが

 親父が与えてくれた物だ。俺は何も分かっちゃいなかったんだ……。


「……頼む親父、頭を上げてくれ、頭を下げなきゃならないのは俺のほうだ。今まで親父がどんな思いでここまで育ててくれたのか……」


 深々とこうべを垂れる親父に懇願する俺の語尾は震えていた。


「お前の優しさは母さんに似ていると言ったな、受け継いだ物は優しさだけじゃない、成長して日に日に母さんの面影が強くなる。ふと母さんが俺のかたわらにいてくれるような錯覚すら覚えるんだ。やっぱり母さんがのこしてくれた最高のギフトは零、お前なんだ……」


 普段、口を開けばエロい話しかしない。洋物ポルノビデオが子守歌替わり、

 隙あらばともだ◯んこをしかけてくる。そんな親父が正直、ウザかった、

 茜以外の友達に会わせるのも絶対に嫌だった。


 親父は最愛の女性を亡くした悲しみにふたをするために、

 をしていたのではないのか!?

 道化の仮面を被ることで崩れ落ちそうな気持ちに蓋を……。


「零、この場所にこれから行くといい。母さんのことを一番、知っている人に会えるはずだ。何よりお前の抱えている悩みについて道を示してくれるはずだ……」



 親父に示された場所とは……。



 *******



 その場所は俺の家から自転車で数十分で到着する距離だった。


 趣味の改造ママチャリの真価を発揮する急坂もないので、普段はあまり通らないルートだ。古い店舗が連なる商店街は、連休の喧噪から取り残されたように

 閑散としていた。近所に大型ショッピングモールが出来た影響もあり、シャッターを降ろして廃業した店舗も目立つ。

 商店街近隣には歴史の古い県立高校もあり、通学路は普段だったら学生達で賑わうだろうが休日ではその姿も見えない。


「親父のメモではこの住所で間違いない筈だけど……」


 寂れた商店街の中でも、ひときわ古ぼけた店の前で立ち止まる。


 古材を利用したおもむきのある看板には我楽多 具無理ぐむりと漢字で書かれていた。


 廃業した蕎麦屋そばやを改装したと思われる店先には所狭しと物が置かれている。よく見ると昔のお皿や狸の置物、昔の陶器製の便器もあるぞ……。


 置かれている物の年代はバラバラでまったく統一感はない。


 一体、何のお店だろう!?


 狸の置物に掲げられたボードに営業中と書かれている文字が、かろうじて読み取れるが、店構えがかもし出す怪しい雰囲気もあり、親父の指示がなければ絶対に入店はしないだろう。


 店内に一歩、足を踏み入れた途端、俺はめまいのような錯覚に襲われた。

 まるでタイムスリップしたみたいだ……。


「……おわっ!?」


 思わず驚きの声が漏れ出てしまう。

 居抜きの狭い店内には表の何倍も物が置かれていた。


 江戸時代から昭和まで、様々な年代の物があるように見受けられる

 古道具屋さんのようだが、アカデミックな堅苦しい雰囲気はなく、

 手前の棚には昭和の懐かしいマンガが描かれたブリキのお弁当箱や

 懐かしアイドルのプロマイドが束になって置かれていた。


 そうだ、タイムスリップした感覚になったのは小学生の頃、茜と良く通った駄菓子屋さんに店全体の雰囲気が似ているからだ。当時の少ないおこずかいを大事に握りしめ、毎日飽きずに通ったな……。


 奥に進むと昔の木製の冷蔵庫や階段箪笥が置かれている。

 その脇のカウンターにはレジが設置されているが店員らしき人影は見えない。

 

「こんにちは!! 誰も居ませんか!?」


 玉すだれの暖簾のれんをかき分けて店の奥に声を掛けてもまったく返事がない。


「参ったな、留守なのか……」


 どうしたものか途方に暮れていると、ふとレジ脇に貼られた紙が目に留まる、


【不在の時はお手数ですが、店舗兼住居の二階までお越し下さい】


 田舎の個人商店みたいだな、勝手に上がって怒られないだろうか!?

 靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて店の奥の狭い中階段を登る。

 階段の途中にも所狭しと骨董品が積まれている。

 足の踏み場を考えないと危ないぐらいだ……。


 階段を上がると普通の家と違い、二階リビングの作りみたいだ。

 玄関はなく普通のドアがありそこに呼び鈴が設置されている。


「用がある時はこれを押すのか?」


 呼び鈴に指を伸ばして鳴らそうとした矢先、勢いよく二階のドアが開いた。


「あっ、おじいちゃん? ちょうど良いところに来た!! 麻衣まい、お風呂のボディソープを切らしちゃったんだ、買い置きを出してくれない」


 つん、むにっ♡


 何だ、この柔らかい指先の感触は、固い呼び鈴のボタンじゃないぞ!?


 可憐な女の子がタオルで顔を覆い水滴を拭いながら戸口に立っていた。

 水の滴る透き通るような白い肌が同時に俺の目に飛び込んでくる。

 俺と同じくらいの年齢に見えるぞ。女子高生なのか!?

 女の子も俺と同じく固まったまま身じろぎ一つしない。 


 俺はとんでもないことに気が付いた!?

 なぜなら女の子は真っ裸だった……。


 呼び鈴を鳴らそうとした指先が凍り付く。

 俺が押したのは呼び鈴ではなく、勢いよく飛び出してきた女の子の

 形の良いおっぱいの先っちょだったんだ!!


「い、い、いっ!?」


 女の子の顔がみるみる赤くなり、いや、赤いと言うより青ざめて見えた……。


「い、嫌あっ!!」


 女の子が悲鳴を上げるやいなや両手で力任せに俺を階下に突き飛ばした。

 バランスを崩し後ろ向きに階段を転げ落ちながら、死と言う文字が脳裏に浮かんだ。最後に見る風景が見知らぬ女の子のたわわなおっぱいなんて!?


 ラッキースケベが大好物な俺らしい死に方かも……。


 ドテボキグシャ!!


 背中で骨董品をなぎ倒しつつ、けたたましい音を立てながら俺は階段落ちした。


「た、大変、おじいちゃん助けて!! ひ、人が階段から落ちて、し、死んじゃうよ……。誰か助けて!!」


 俺は薄れゆく意識の中で女の子のある部位を目に焼き付けた。

 敬愛する鶴光師匠の言葉が俺の脳内にリフレインする。


乳頭にゅうとうの色は?】


 ツンと上向きな二つの突起はほんのりピンク色だった……。

 女の子の乳首がじゃなくて本当に良かった。


 この店の名前は我楽多具無理がらくたぐむり

 骨董品に埋め尽くされた風変わりな店先みたいに昭和チックなセフテンバーラブじゃ洒落にもにならない。


 おあとがよろしいようで、おひゅうっ……。



 ───────────────────────


 謎の美少女はいったい誰!? の次回に続く。


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