可憐な美少女との過ぎ去りし日の思い出……。そのに

 ――俺、野獣院零やじゅういんれいは子供の頃、地元にある君更津きみさらず中央病院へ数年間不自由な右手のリハビリ目的で通院していた時期があった。


 俺は母親の温もりを知らない……。

 難産で生まれた赤ん坊の俺の命と引き換えに母親は他界した。

 母親が早くに亡くなった事実がその後の俺の人生に暗い影を落とす。


 その後の母親がわりは当時同居していたお祖母ちゃんの世話になった。

 お祖母ちゃんが親父に内緒で見せてくれた古い写真のアルバムには若い頃の母親が写っており俺は初めて顔を見ることが出来た。親父の隣で柔和な笑みを浮かべた母親の表情はどことなく俺に雰囲気が似ている気がしてなんとも言えない気分になる。

 最愛の連れ合いをなくした親父の悲しみは、とても深かったとお祖母ちゃんが俺に教えてくれた。その後のわが家では亡くなった母親の話題は禁句だったという。

 家族のあいだでも暗黙の了解になっており、そのことは幼い俺でも理解していた。


 ひどい難産で俺は右手の肘を骨折したまま生まれてきたそうだ。

 俺が神様からもらったのギフト、湾曲わんきょくした右腕、学校の体育で必ずやる前習えの姿勢が上手く出来ない。くの字に曲がった右肘は周りの友達からよく嘲笑ちょうしょうされることが多かった。


 大多数ほとんどの子供はマイノリティに対して残酷だ、左利きと言うだけでもかなり目立つのに……。

 

 お祖母ちゃんやリハビリの先生が俺を励ます言葉はいつも同じだ。

 零くんは頑張ってリハビリすれば将来、両手を使って車も運転できるし、運動や趣味だって自由に楽しめると言われたが、俺には気休めにしか聞こえなかった。


 この醜い右手は何の為に存在するんだろう?


 その頃の俺は極端に笑顔の少ない子供だった。

 乙姫おとひめとあの日、君更津総合病院で出会うまでは……。


 乙姫、それは俺の付けた乙歌おとかのあだ名だ。

 彼女を見かけたのは混雑した病院の待合室で偶然、隣に居合わせたんだ。


 待合室の固い長椅子にちょこんと座り、興味深そうな視線を投げかけてくる少女。

 何だ、この女の子!? 人の顔をじろじろと見て……。へんな奴!!

 あまり関わらないでおこう。 人見知りだった俺は完全に無視を決めこんだ。


『ねえ、あなたは何の病気なの? どこも悪くないように見えるけど……』


 急に女の子が俺に話しかけてきた。くそっ、面倒くさいな、適当にあしらっておこう……。


『俺は頭が悪いからここに来てんの、馬鹿に付ける薬を貰うんだ……』


 わざとぶっきらぼうに答える、もちろん軽い冗談のつもりで俺は言ったんだ。



『そっか、頭が悪いのか。乙歌すっごく納得したよ!! お兄ちゃんってかなり馬鹿そうだもんね……』


 可哀そうに、とでも言いたげな表情で女の子が俺に言い放った。


『ぶはっ!? 冗談を言ってるのが分からないのかよ!! 少なくともお前より全然頭はいいから!!」


 彼女の言葉に面食らって思わず声を荒げてしまう。

 俺は初対面の女の子に何で、目一杯キレてんだ……。


 女の子はにんまりと笑って脇に置いてあったランドセルから一冊の本を取り出した。俺より一学年下の小学三年生の漢字ドリルだ。名前の欄には(うらさわ おとか)と書いてあった。


『ちょうど良かった!! お兄ちゃんを見込んでお願いするね。私に勉強を教えてくれないかな?』


 まんまと女の子のペースに乗せられてしまった。

 その日から俺と乙歌の病院での勉強会がスタートした……。


 彼女が何の病気で入院しているか詳しくは教えて貰えなかった。

 俺が乙歌の病室を訪れているあいだにも彼女は検査で席を外すことが多かった。

 勉強を教えることが俺にとって病院に行く唯一の楽しみになった。乙歌は国語が苦手で俺は漢字を重点的に教えるつもりだった。亡くなった母の影響で本の虫だった俺は国語が得意なことも幸いしたな……。


 そんな幸せな日々が続いたある日、真っ黒になるくらいに書き込みで埋まった漢字ドリルを解きながら彼女が俺に言った。


『ビッグニュースだよ!! 担当の先生から週末に外出許可を貰えたんだ。一緒にお出かけが出来るね。私、零お兄ちゃんと二人で動物園に行きたいな……』


 普段は生意気なことを言っても動物園に行きたいなんて、乙歌はまだまだ子供だな……。

 

「乙歌、お洒落な服を着てくるね!! お母さんにおねだりして買ってもらった可愛い白のエプロンドレス、零お兄ちゃんに真っ先に見て貰いたいから……」


 乙歌がにこやかに微笑んだ。俺は彼女の無邪気な笑顔が何より嬉しかった。


乙姫おとひめもやっぱり女の子なんだな、まあ馬子にも衣装でいいじゃねえの!!」


 嬉しい気持ちをさとられぬよう俺は軽口を叩いた。本当は飛び上がるくらい嬉しいくせに……。


『ねえ、前から不思議に思っていたけど零お兄ちゃんは何で私のことを、乙姫ってあだ名で呼ぶの?」


 急に聞かれて俺は返答に詰まってしまった……。


 笑われるかもしれないが乙歌をそう呼ぶには理由わけがある。

 思い起こせば幼稚園の頃、普段目立たない俺が主役に大抜擢されたおゆうぎ会。

 その出し物の演劇が昔話の浦島太郎だった。それにちなんで俺は乙姫と彼女を呼んだんだ。絵にも描けない美しさ、ならぬ可愛らしさ、彼女は俺のお姫様だったから……。


『お前が可愛いからに決まってんだろ、だから乙姫なの。俺様が決めたんだからありがたく思えよ!!』


 思わず自分の本音が口をついた、乙歌が可愛いって本人に言ってしまった!?

 

 乙歌は俺の言葉にいつもの調子で照れると思ったんだ……。


 だけどあの日の彼女の反応はまったく違っていた。


『……零お兄ちゃんがそういうなら私は乙姫でいいよ。だけど心配なのが昔話の浦島太郎だと最後が悲しい終わり方だよね」


 彼女が心配したのは浦島太郎のお話がバッドエンドだからだ。

 お土産に持たされた玉手箱を浦島太郎は乙姫との約束を守らずに開けてしまい、煙とともに一瞬にして老人になってしまった終わり方を言っているんだ。


『馬鹿だな乙姫、本当の浦島太郎は全然違う結末で太郎と乙姫は結婚して末永く幸せに暮らすんだ。竜宮城で大勢の子宝にも恵まれてな……』


 諸説しょせつはあるが俺達がよく知っている結末は戦後に変更された内容だそうだ。贅沢三昧を繰り返すのは道徳的によろしくないという理由わけで。


「零お兄ちゃん、本当なの!? 乙歌それならとっても嬉しいよ……」


 良かった、喜んで貰えたみたいだな。



『じゃあ私と約束しようよ!! 絶対に浦島太郎みたいにならないって。結婚して幸せに歳を重ねて、ずうっと乙歌と一緒にいるってここで誓ってくれる?』



『もちろん誓うぜ、乙姫と結婚して子供を沢山作るんだ!! そうだ野球チームが出来るくらいな、あ、最後の選手は飼い犬でいいかもな……』


 野球連盟に犬は登録出来ないと俺は心の中で一人ツッコミをする。


『もうっ、零お兄ちゃんのエッチ……。子作りとか乙歌、知らないから!!』


 最後でいつもの乙歌に戻ってくれた……。

 俺は馬鹿でも道化でもいいんだ。この輝いた笑顔を守れるのなら……。


 あの日の俺はそう思っていた。こんなに大事な記憶を何故、消し去っていたんだろう。その記憶だけ頑丈な鎖でからまれ開けることの出来ないパンドラの箱みたいだった。


 そのときの俺は親の再婚で香坂こうさかと名字が変わり、見違えるほど大人になった彼女と、よもやあんな形で再会するとは夢にも思っていなかった。


『零お兄ちゃんは覚えてないよね、あの日病室で交わした乙歌との約束……』


 なあ、乙姫、お前はもう一度この俺と幼馴染をやり直してくれるのか!? 



 次回に続く。



 


 


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