幼馴染と放課後の寄り道のおもいで。

 俺は病院を後にした帰りのバスの座席で考えこんでいた。

 あかねからのメールは俺にとっては朗報だったが、素直に喜べないのは香坂乙歌こうさかおとかちゃんと交わした約束の重大さに押しつぶされそうになっていたからだ。頭の中をぐるぐると考えが錯綜さくそうしてしまう。


 駄目だ、今考えるのはとても無理だ。俺はかなり疲れていた……。

 心地よいバスの振動に揺られ、いつしか眠りに落ちそうになってしまう。


 今日一日はいろんなことがありすぎた……。


 もうろうとした脳裏には何故か小学生のころの記憶が蘇ってきた。



 *******



『茜は零ちんのこと大好きだよ、大人になったらお嫁さんにしてね!!』


 子供の頃の約束ほど曖昧あいまいなモノがあるだろうか?


 一緒に通った小学校までの道すがらにある古びた商店が、俺と茜にとっての遊園地レジャーランドだった。


 わずかなおこずかいを二人でやりくりして駄菓子を買い食いした懐かしい日々。

 もっぱら俺は好きなアイスや数十円で買える駄菓子ばかりだったが、茜が好きだったのはシール帳に貼るデコレーション用のシールやテープ、立体的なぷくぷくした物や香りつきなど当時の女の子の間で大流行していたんだ。

 そうそうプロフィール帳という交換日記的な物も流行っていて俺も茜にむりやり書かされたっけ……。


『零ちん、ちゃんと全部のらんを埋めてから茜に返してね、


 駄菓子屋の店先に置かれたベンチで手渡されたカラフルなプロフ帳。

 茜の好きなキャラクター、世界一有名なビーグル犬のガナーピーとお供の鳥のモントレーが表紙を彩る。パラパラと中身を確認しようとしたらさっそく茜にたしなめられた。


『あっ、気を付けてね、シールをはさんであるから落とさないで、

 零ちん用にシートで買ったんだから……』


 茜のテンションが上がっているのが分かる。浮かれた時は無意識にひざをもじもじする癖、白いワンピースのスカートから伸びた白い足を見て見ぬ振りでこっそりと盗み見る。擦り合わされる膝小僧ひざこぞうに俺はどぎまぎしてしまった。いま思えばあれが少年の通過儀礼つうかぎれいだったのかもしれない。


『面倒くせえな、どうしても書かなきゃ駄目?』


『だ~め!! 茜が一ページ目に書いたんだから隣のページが零ちんなの!!」


 この年代の少女特有のお姉さん感はいったい何なんだろう。

 絶対に年上ぶるんだよな、俺と同い年のくせに……。


 しぶしぶ頁をめくり可愛いガナーピーのイラストだらけのプロフ欄を見つめた。


 俺は昔から字が汚くて人前で書くのが大の苦手なんだ。

 言い訳ではないが出生時に難産のすえに右手を骨折したまま俺は生まれてきたそうだ。君更津中央病院きみさらずちゅうおうびょういんを良く知っていたのも子供の頃、リハビリでしばらくお祖母ちゃんに連れられて通っていたからなんだ。


 俺は不自由な右手を左利きにやむなくチェンジしたんだ。そんな一連の出来事が俺の人生に暗い影を落とした。

 この社会全体が右利き用に作られていると言っても過言ではない。習字の書き順やシャツの胸ポケットの位置、ハサミの持ち手、これは実際に経験してみないと不便さは絶対に分からないだろう。

 小学校に入って一番嫌だったのが隣に座った人と自分のひじが当たってしまうことだ。

 ご飯を食べるときもそうだ。俺は文字通り形見の狭い思いをした……。


 一ページ目に書かれた茜の可愛いが丸っこい文字、でも習字を習っているからとてもキレイだ。俺のミミズがのたくったような字とは雲泥うんでいの差だった。

 それを見ただけでコンプレックスでげんなりしてしまった。


『ねえ、とっても可愛いでしょ、ガナーピーとモントレーのプロフ帳。今回のために隣町のデパートまでお母さんと行ってわざわざ買ったんだよ!!』


 そんな俺の気も知らず茜は嬉しそうだ……。

 屈託くったくのない笑顔、大好きな幼馴染みの茜、俺のかけがえのない宝物だ。

 この笑顔を曇らせたくない。だけどその時の俺は無性に腹が立っていた。

 茜にではなく自分自身に……。


『俺じゃなくても同じクラスの女どもに頼めばいいだろ!!』


 ぶっきらぼうな口調でキレ気味に返答してしまう。そして手にしたプロフ帳を、

 茜に押し返そうとしたその瞬間!!


『ああっ!?』


 ……うっかり手が滑ってしまった。


 俺達の座るベンチの足元の地面に乾いた音を立てながらプロフ帳が落下した。

 表紙に描かれた真っ白なガナーピーのイラストが土で汚れてしまい、何だかとても寂しそうな表情に見えた。


『零ちん、ひどいよ……』


 茜が泣きながら傍らに置いたランドセルをつかんで店先から駆けだしてしまった。


『あ、茜っ!!』


 慌てて後を追いかけようとしたがプロフ帳を拾い忘れたことに気がつき、もう一度駄菓子屋まで戻るはめになり結局茜に追いついて謝ることは出来なかった。


『……どうしていつもこうなるんだろう、俺は』


 とぼとぼと薄暗くなった帰り道を一人歩く。家に戻り隣に立つ茜の家を見上げると、

 この時間はいつも灯りが点いているはずの窓は真っ暗なままだった。


 俺は取り返しのつかないことをしてしまったんだと理解した。

 すぐに追いかけて茜の家まで謝りに行くべきだった……。 

 だけど臆病で卑怯な俺には茜の親にそのことを切り出せるはずがなかった。


 その夜の夕食は何を食べたかまったく覚えていないほどだった。

 味がしないとはまさにこのことだろう。


 その日に限って親父が残業で食卓に居ないことがせめてもの救いだった。

 俺の父、野獣院達也やじゅういんたつやはスケベでがさつそうにみえるが結構勘が鋭いんだ。

 男手一つで俺を育てたせいなのか、父親でもありそして母親の役目もになうので繊細な女性みたいな視点もあるから、もし食卓に親父がいたら絶対に見抜かれたはずだ。


『何、隣の茜ちゃんを泣かしただと!? 馬鹿者!! 謝りに行く前に

 お前の根性を先に叩き直してやる。メタクソ団の七年殺しの刑罰でな!!』


 七年殺しとは往年の少年漫画で流行った恐ろしい必殺技だ。簡単に説明すると

 相手にカンチョーして水戸肛門の中で指先を開くという世にも恐ろしい技だ。

 親父は子供だからといって手加減はしない。


 想像しただけでも痛むを押さえながら自分の部屋に戻り、俺は解決策を考えた。


『う、ううっ、何も名案が浮かばない……』


 ちらりとカーテンを開け、俺の部屋に面した隣家の窓を見つめた。

 茜の部屋だ。まだ灯りは点いていない。

 いつもなら窓越しに柔らかな明かりが見えるのに、今日はカーテンが固く閉じられたままだ。


 俺の胸中きょうちゅうにどんどん黒い不安が膨れ上がってきた。

 もう茜は一生俺と口を聞いてくれないんじゃないかって。


 ……そんなのは絶対に嫌だ!!


 俺の脳裏には茜と過ごした日々が次々を浮かんてきた。

 田んぼのあぜ道でアマガエルに驚く顔、夏祭りのリンゴ飴をほおばる頬、

 一緒に帰った帰り道の手のぬくもり、途切れることがないと思った


『茜は部屋の電気のスイッチを二回パチパチするから、零ちんはスイッチを三回パチパチして、それがおやすみの合図だよ!!』


『茜、何だよソレ、かなり意味不明なんだけと……』


『それはね……』


 にっこりと笑みを浮かべる俺の可愛い幼馴染み。


 俺の中にこんなにも茜があふれていることに、初めて気付いてしまった……。


『うわああっ!!』



 俺は悩むのをやめにした。今やれることをしよう!!



 泥で汚れたプロフ帳を学習机の上に置く。

 今ならパソコンで検索してキレイにする方法を知恵袋なりで簡単に質問出来るだろう。だけどその頃にはそんなものはない。俺はリビングに降りてお祖母ちゃんに電話をかけた。


『もしもしお祖母ちゃん、零だけど、ちょっと教えて欲しいんだ……』



 *******



『よし!! 上出来じゃないか』


 俺はペンを持つ手を止め再度文章を読み返した。

 あれから時間がかなり経過したことに驚いてしまった。もう普段なら寝る時刻だ。


 ふと顔を上げ窓の外を見ると茜の部屋の電気が点いている!!

 俺は窓際に駆け寄り隣の様子を伺った。喜んだのも束の間、いつもは薄いカーテンだけなのに、まだ二重の厚いカーテンで閉ざされたままだ。


 やっぱり怒っているよな……。意気消沈いきしょうちんしてベットにむかい枕元に置かれた部屋の灯りのリモコンに手を伸ばした、その瞬間。


 パッ、パッ、


 ……茜の部屋!?


 二回点滅、おやすみの合図だ。


 俺は自分の目を疑った。間隔をおいて繰り返される点滅、


 茜の言葉が蘇った。


『零ちん、おやすみの合図は大好きな少女漫画でやっていて、茜、とっても憧れたんだぁ、幼馴染みの隣同士で零ちんと茜みたいだって♡』


 おやすみの合図はやる時間を決めてあるが、もし相手が答えなかったら気が付くまで繰り返しする約束だ。


 パッ、パッ、


 二回点滅が繰り返され、まるで季節外れのほたるの灯りみたいだ。


『茜、ありがとな……』


 俺はお祖母ちゃんのアドバイスで、すっかりキレイになったプロフ帳の表紙をそっと撫でた。意外だったが紙の土汚れには消しゴムが最適なんだ。さすがお祖母ちゃんの知恵袋!! 


 俺は多幸感たこうかんに包まれながらリモコンに手を伸ばす。


 パッ、パッ、パッ、


 三回点滅。


 パッ、パッ、


 俺の合図に向かいの窓が応答する。大好きな幼馴染みと俺をへだてる数メートル、だけどこの瞬間だけは繋がっている。


 合図の提案をしたときの茜、はにかむような笑顔がまぶしく思い出される。


『もうっ、零ちんがしつこく意味を聞くから特別に教えてあげる。茜の二回点滅は れ、い、零ちんの三回点滅は あ、か、ね、漫画でも同じだったけど大好きな相手の名前を同時に灯りの点滅で呼び合うの……」


 そして茜は俺のいちばん大好きなあの笑顔を浮かべたんだ……。


『茜ね、零ちんのことが大好きだよ!! 大人になったらお嫁さんにしてね』


 あの頃の自分に戻れたら、もしもタイムマシンがあるのなら、俺は過去に戻ってもっとハッキリ好きだと茜に告げただろう。



 *******



 翌朝、いつものように玄関先に迎えに来てくれる茜。

 何となく気まずい表情の俺に自分の右手を差しだしてくれた。


『……あ、茜、昨日はゴメン』


『そのことはもういいの、茜もついカッとなって先に帰っちゃって。可愛くないよね、こんな女の子じゃ……』


『そ、そんなことないよ!! 俺の大好きな茜が可愛くないなんて……』


 ……言ってしまった。早鐘のように心臓がバグバクする。


『私ね、零ちんが左利きなのが嬉しいんだ。いろいろと大変かもしれないけど茜の右手と零ちんの左手、いちばん使う手がとっても仲良く出来るから!!』


 そう言って茜は俺の左手に自分の右手を重ね、ぎゅっ、と握り返してきた。


『ねっ、もっと仲良しになれたみたいでしょ……」


 神様、この女の子と幼馴染みにしてくれたことに心から感謝します。

 願わくばずっとこの手を繋いでいられる関係を望んでもいいでしょうか?

 他には何も望みません。


『茜、悪かったな、完全にもとどおりじゃないけど……』


 鞄から取り出したプロフ帳を彼女に差し出した。


『……こんなにキレイにしてくれたんだ、すごく大変だったでしょう?』


 表紙のガナーピーを愛おしそうに見つめる茜。


『大丈夫、そのかわり消しゴムがちびったけど……』


『消しゴム!? 何それ、茜にも教えてよ』


『もう別にいいんだ。それよりプロフ帳、読んでくれないかな、俺なりに頑張って書いたつもり……」


『……ありがとう、でも読むの今じゃなくてもいいかな?』


『別にいいけど、どうして?』


『零ちんが頑張って書いてくれたのに、すぐに読んじゃうともったいないから……」


 つないだ手に力が込められるのが感じられた。


『……茜、お前は』


『さっ、零ちん、早く学校に行こう!! どっちが先に校門まで到着するか競争だよ!!』


『あっ、茜、待てよ!! 不意打ちは卑怯だぞ!!』


 振りほどいた手の感触が冷めやらないまま、俺は茜の赤いランドセルの背中を追いかけた。普段の日常が戻ってきた瞬間だった。


 これでいいんだ。俺と茜の関係性は。


 常に俺が茜を追いかける立場が性に合っているから。


 だけど正直、少し残念に思ったことがある。茜の反応がこの場で見られなくて。

 プロフ帳の将来の夢の欄には俺のを書いておいたから……。



 ☆☆☆☆☆


 しょうらいはなにになりたい?

 あなたのきぼうをかいてね!!



 みまあかね               


 れいちんのおよめさんになりたいです。   


      

 やじゅういんれい 


 あかねとけっこんしていつまでもしあわせにする。


 ★★★★★



 次回に続く。      






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